2011年の東日本大震災と原発事故から11日で15年。
今も、町の8割が“帰還困難区域”で、“帰れない街”の現実が残る福島県双葉町を兵動大樹さんが歩きました。
■『双葉町の“ソウルフード”』思い出の味を再オープンさせた理由
『双葉町の“ソウルフード”が帰ってきた』
そう聞いた兵動さんが向かったのは、サンドイッチなどを販売する店「ペンギン」です。
1982年に双葉駅前で創業し、地元の高校生らの憩いの場として愛された店は、2007年に一度閉店しました。
しかし6年前、母から店を引き継いだ山本敦子さんが復興拠点の建物で再オープンし、“思い出の味”を復活させました。
看板商品は、かつて学生が名付けたという「スペシャルサンド」です。
運ばれてきた瞬間、兵動さんは笑いながら「僕が高校生のときに出会いたかったね。これはほんとすごいボリューム。表札ぐらい」と驚き、「めちゃくちゃおいしい。この味なら2個ペロっといけるかもしれへん。55歳でも」と頬張りました。
■「ペンギンがある」と思える場所が帰る気持ちを支える
店が戻ってきた理由を山本さんは、「双葉の人が寄れるお店がないと困るよねってことで私しかいないかなって思って帰ってきました」と語ります。
変わらぬフライドポテトは、常連の人から“いも”と呼ばれているそうです。
「『“いも”あったー!』『“いも”うまっ!』『“いも”ちょうだい!』」と言われると話す山本さんに笑顔がこぼれます。
兵動さんも「『ペンギンあるやん!』『ペンギン元気にやってくれてるやん』ってなったら気持ち変わりますもんね」とうなずきました。
山本さんの自宅は、車で1時間かかるいわき市にあり、生活拠点もできているため、双葉町には戻れていません。しかし「いつか戻りたい」という思いもあると言います。
【山本敦子さん】「なぜかわかんないですけど昔のことを思い出すんですよ。今までここにずっと住んでいたよね?って感じなんですけど。例えば海の音だったり、匂いだったり。すると高校生の時はこうだったなぁって。遠足の時の匂いがするとか。やっぱりそれは、ふるさとだからなのかなって思います」
■「3日から長くても1週間で戻ってこれるだろう」と思っていたが…
次に訪れたのは、地震、津波、そして原発事故の教訓を伝える伝承館です。
清水一郎副館長は、津波に襲われ、押しつぶされた消防ポンプ車の前で「いろんなものに巻き込まれてこういった形になってしまった」と話し、避難を呼びかけていた2人は目前の津波から乗り捨てて逃げたと説明しました。
原発事故では「被爆のリスクがある」と国から避難の指示が出され、翌日には半径20キロ圏内の避難指示によって双葉町から人がいなくなりました。
住民の多くは「3日から長くても1週間で戻ってこれるだろう」と“本当に大事なものだけ”を持って逃げたものの、結果的に戻れたのは半年から1年後の“一時帰宅”で、その時間も「1時間前後」だったといいます。
放射性物質の影響により、生活は大きく制限されました。そして、困難を極めたのはその除染作業。汚染した大量の草や土などは、袋に入れて集められました。
清水副館長は「東京ドームを満杯にした状態で11杯分」もの汚染土などを福島県で集めたと説明。それでも「特に汚染された地域はまだまだ」という現実が続きます。
■震災で失った神社を再建
伝承館の清水副館長から「ある人に会ってほしい」紹介されたのは、地域の神社再建に取り組んだ人物でした。
待ち合わせ場所に現れたのは、双葉町浜野行政区の区長・高倉伊助さん(70)。
兵動さんは「思ってたんと全然違う。パッと見たら、やんちゃなイケオジじゃないですか」と驚きます。
高倉さんが再建したのは中野八幡神社です。
震災で自身の自宅も失った高倉さん。「震災前は同じ場所に神社ありました。震災でこの地域の約50棟は全部流れ、神社も流れ」と被害を語ります。
■「2回目、戻りきれなかった」助けられなかったことを悔やむ
地震発生からおよそ50分後にやってきた高さ約16mの津波によってほとんどの建物が流された浜野行政区。直撃を受けた2つの建物が今も当時のまま残されています。
あの日、この地域は中学校の卒業式でした。高倉さんは地震直後、近所の人の避難を手伝いました。
【高倉伊助さん】「ここは娘さんが卒業したばっかりの中学生がいるなと思ってきて、そしたら娘とばあちゃんがいなかったんですよ」。
1回目は見つけられず、高倉さんは道路にいた人を避難所に送り届けました。
しかし「『伊助さん、ばあちゃんと子どもが来てないんだ』と言われて、また2回目、戻りきれなかったんです。伝承館のあたりで運よくパトカーに止めてもらったから私は助かりましたけど」
高倉さんはなんとか助かったものの、多くの命が失われました。
【高倉伊助さん】「ここは中学校卒業した女の子と、おふくろさん亡くなっています。あとそっちは、産まれて3カ月の赤ん坊と、60代半ばのおふくろさんが亡くなっています」
【兵動大樹さん】「戻っていたら伊助さんは今いませんよね、ここに」
【高倉伊助さん】「いません、死んでいます」
■「観音様置きたいんだ」という声に応え
【高倉伊助さん】「亡くした親にしてみれば情けなかったというのは、次の日、捜索活動する中で、町から出ろと言われて、5年間も入れなかったんですよ」。
行方不明となった家族を探しにも行けない時間が過ぎていきました。
それでも「観音様置きたいんだ」という声に応え、寄贈された観音像を迎えました。
再建は一人で成し遂げたものではありません。
【兵動大樹さん】「一人で作られたんかなってイメージあったけど、違うんや。みんなに助けてもらってできた神社や」
【高倉伊助さん】「いろんなものも、地区の人の手を借りて、みんなでフェンスも水道も電気も、みんなでできるところは地区の人の手でやりました」。
その言葉通り、祈りの場所は、地域の総力で立ち上がりました。
■関西からの縁で神輿が寄贈 3年前に行われた神輿祭り
中野八幡神社のシャッターが開くと、そこにあったのは関西からの縁でした。
【高倉伊助さん】「これが淡路島の伊弉諾(いざなぎ)神宮の力添えでもらった御神輿です。こっちは大阪天満宮からもらった子供神輿です」
3年前に行われた神輿祭りでは、戻れずにいた多くの人が久しぶりに双葉町へ帰ってきました。
威勢よく担がれる神輿。
【兵動大樹さん】「『復活』ですよね」
高倉さんは「『子供、孫にこうやって手を合わせる場所ができた』って言われたときには、やってよかったかな…」と胸の内を明かします。
【高倉伊助さん】「少しでも自分で動ける時に動いて、少しでも進めればなと。そうでないと我々の町は、不毛の地になっちゃうし」
【兵動大樹さん】「またこの神輿が派手にシャンシャンと行くことを祈っておりますんで。その時まではお元気で」
■「まだ震災は終わっていない」兵動さん
取材の最後、屋上から双葉町を一望できるという場所にやってきた兵動さん。
【兵動大樹さん】「この双葉町はまだ20%のところしか戻ってこれないです。まだ震災は終わっていないです。5年後、10年後というふうに日数も決まっていない」
ただみなさん、自分の思い入れや、思いやりや、一生懸命になって一人一人が頑張ってはるのは事実でしたね。また来たいね。どうなってんやろう、双葉町が」
(関西テレビ「newsランナー」 2026年3月10日放送)