安倍政権や菅政権で官僚トップの官房副長官として長く政権を支えた警察庁出身の杉田和博氏が21日、亡くなった。84才の突然の訃報だった。
筆者が杉田氏と初めて会ったのは1995年に担当記者となった警察庁で、杉田氏は警備局長としてオウム真理教事件の捜査の陣頭指揮にあたっていた。
この年の3月に地下鉄サリン事件が発生、警視庁などが山梨県上九一色村(当時)の教団本部などの強制捜査に入り、一連の教団の事件に関わった幹部や信者らが逮捕される中、サリンなど化学兵器や生物兵器によるあらたなテロ事件の発生も警戒された。
教団との「全面戦争」中の警察トップ銃撃
そのさなか、強制捜査の8日後には国松孝次警察庁長官(当時)が自宅マンションを出たところで、何者かに銃撃され重傷を負う事件が発生した。教団との全面戦争といえる状況の中での警察トップの銃撃に衝撃が走ったが、この捜査は警備局と警視庁公安部が担うことになった。
5月には教祖の麻原彰晃こと松本智津夫元死刑囚が逮捕され、前年1994年におきた松本サリン事件、そして89年におきた坂本弁護士一家失踪事件も教団の犯行とわかり、9月には坂本弁護士ら家族3人の遺体が山中の別々の場所から発見された。
連日、オウム真理教に関する報道が続く中、杉田氏は取材には捜査の具体的なことは話さないが、一連の事件で多くの一般市民の犠牲者を出したことに悔しさをあらわにして、警察が失った信頼を取り戻すために何をすべきなのか、真剣に丁寧に語ってくれた。
その後、内閣危機管理監などを経て、安倍内閣、菅内閣で官房副長官として歴代最長の8年9カ月に渡って政権を支えたが、時の政権を揺るがす問題に対処する一方で、取材にはその事案の背景を丁寧に説明し、官邸でも多くの記者から信頼を得ていた。
筆者も食事をしながら話をする機会があったが、自らの信念は決して曲げず、一方で我々の考え方にもじっくり耳を傾け、「それは君ねえ」と言いながら柔和な笑顔で滔々と思いを話す姿は今も頭に浮かぶ。
地下鉄サリン想定せず 「びっくりした。やられた」
2025年3月、地下鉄サリン事件から30年、警察庁長官銃撃事件から30年の節目に、かねてからお願いしていたカメラインタビューに応じてもらった。
地下鉄サリン事件発生の一報を聞いた時、率直にどう思ったのかを尋ねると「びっくりした。やられたと思いました」と事件をまったく想定していなかったことを明かした。
前年の神奈川県警本部長当時から横浜で坂本弁護士事件があったこともあり、教団には着目し、警備局でも情報収集を続けて強制捜査に入る準備を進めていたが、「ああいう事件をおこすという想定はありませんでした」
「異形の集団であると感じながら実際に捜査には時間がかかりました。警察力をもっと幅広く、早い段階で投入するべきでした。そこは情けないと思う」と正直な胸の内を明かした。
一方、警察庁長官銃撃事件では杉田氏は警備の最高責任者でもあった。
「驚愕ですよ。警備はがちがちだと思っていましたからね。長官に申し訳ないと思いました」
実際に長官の送迎の警備は住民への配慮から厳重ではなく、周囲に警戒の警察官はいたが、迎えに行くのは秘書官だけだった。
事件は2010年に時効を迎えて未解決となったが、事件当時、犯行に関わった疑いが持たれていた警視庁警察官について、警視庁が警察庁に半年近く報告をあげず、その後、責任を問われた警視庁幹部が更迭された。
警察庁長官銃撃事件 「時効になっても終わらない」
「役人をやめるときにこれだけは心残りだったですね」
「事態の重さを考えても、時効になったとしても引き続き、捜査と情報収集はしていくものだと思います。これが明らかにならない以上は、オウム事件はなんだったというのがずっと残るわけですから」
杉田氏は無念の思いを涙しながら語った。
そしてこれからの警察について、「国民が不安、不満に思っていることについて、警察全体でその不安感を与える芽を見極めながら、それぞれの専門分野に集約させていくことだと思います」と後輩に託す思いを語った。
1時間半に渡ったインタビューの最後に官邸の要として過ごした官房副長官の仕事について聞いた。
「毎日毎日必死でした。日米関係、北朝鮮、国内問題など懸案がたくさんありましたが、いろいろなことを考える暇もありませんでした。結果的に気づいてみると9年近く経っていました」
安倍元首相銃撃事件についても話を向けたが、決して多くを語ろうとはしなかった。
筆者も関わっていた取材対応についても聞いた。
「メディアとの接点は大事にしていて、副長官の時もできるだけおきている事態について、バックグラウンドを含めてざっくばらんに意見交換をしました」
「ただ初めて会う記者には同じ事を言いましたが、(内閣人事局長も兼務する自分に)人事について聞くのは野暮だと。ヒントを与えたらおしまい」

現職の時は趣味のテニスをやる時間もないほど忙しかったが、21年に副長官を退いてからは、「もう運動はだめで、今は自宅のまわりを散歩するくらいかな」
こう話した時のしなやかな笑顔が忘れられない。
(執筆:フジテレビ上席解説委員 青木良樹)
【動画はこちら】
