日米開戦のきっかけとなった真珠湾攻撃から12月8日で84年、特集は「戦後80年過去を知る未来に伝える」です。
今回、郷土戦史研究家・稲田哲也さんの調査で、真珠湾攻撃に加わった宮崎県出身の航空機搭乗員が少なくとも21人いたことが新たに分かりました。
真珠湾攻撃に関わっていたことは「遺族も知らない事実」でした。
(郷土戦史研究家 稲田哲也さん)
「ここで言うと戦闘機が1、2、3、4、5、6機出ました」
宮崎市に住む郷土戦史研究家の稲田哲也さんは、東京・市ヶ谷の防衛研究所に残る飛行機隊戦闘行動調書や宮崎の生存者がまとめた戦友会の名簿を基に真珠湾攻撃に加わった県内出身者を調査してきました。
その結果、パイロットなどの航空機搭乗員が少なくとも21人いたことが今回新たに分かりました。
この日は、その1人阪本憲司さんの姪・佐藤智子さんの自宅を訪れ、真珠湾攻撃当日阪本さんが戦いにどう関わったか伝えました。
(郷土戦史研究家 稲田哲也さん)
「編成表。阪本さんは操縦員、ここですね。阪本憲司」
「憲司さんの機はこの日は水平爆撃。(アメリカに)致命傷を与えたのは、実は水平爆撃隊なんですよ」
阪本さんは、18歳で海軍の甲種予科練に合格しパイロットとなり、空母「飛龍」に配属され、真珠湾攻撃に加わりました。
佐藤さんの母とは、20歳 歳が離れた兄妹でした。
(阪本憲司さんの姪 佐藤智子さん)
「戦闘機に乗っていて、自分は特攻で亡くなったと(母から)聞いていました」
「きっとこれが伯父が生きた証であって、私たちのために頑張ってくれたんだなと思います」
稲田さんの調査を基に、隊員たちの実家の住所を訪ねました。
空母「加賀」から出撃し、真珠湾で亡くなった宮崎市の熊本研一さん。
近所の人によると、かつてここには、熊本家が住職を務める寺がありましたが、いまは空き地となっていました。
また、同じく「加賀」から出撃し、真珠湾で亡くなった三股町の桑畑一義さん。
今回桑畑家の戸籍にその名前を確認することが出来ました。
(桑畑一義さんの遺族 桑畑喜芳さん)
「私のじいさんのいとこで、ここに出てきます」
「先祖が(真珠湾攻撃に)携わっていた、関わっていたということに対してはびっくりしました。優秀だったんでしょうけど…」
取材しているうちに見えてきたことも…
(雪丸千彩子記者)
「宮崎市の遺族会館にある資料展示室には、真珠湾攻撃に参加したと見られる隊員の遺書が展示されています」
(遺書)
「昭和16年12月7日ハワイ攻撃前日我は再び生を得て帰艦せじと此処に頭髪を残す」
宮崎市高岡町の宇和数夫さん。
防衛研究所に残る真珠湾攻撃の戦闘行動調書には、名前のない人物です。
しかし、遺書はこう続きます。
(遺書)
「我が爆撃隊は敵戦闘機約百機より待期し居るホイラ飛行場に爆撃を敢行し之を破壊焼上せしむるも我が軍は一機の犠牲者も出でず全機無事帰艦せり」
真珠湾攻撃で、ホイラー飛行場を爆撃した空母「瑞鶴」の艦上爆撃隊。
実はこの部隊の名簿は25機のうち5機分しか残っていません。
稲田さんは、遺書の内容から「宇和さんも真珠湾攻撃に参加していた可能性は高い」と話します。
(郷土戦史研究家 稲田哲也さん)
「実際に参加した人しか知りえないことが書いてありますし「(遺書の)「全機無事に帰って来た」。行動調書を見ると、この部分。「艦爆隊全機収容」と書いてあります。この辺も記述が合致している」
「この25機の中に宇和さんはいたのではないかと思われます」
宇和さんの実家を訪ねたところ、遺書を寄贈した兄の利夫さんやその息子はすでに他界し、詳しい話を聞くことはできませんでした。
(郷土戦史研究家 稲田哲也さん)
「ご遺族すら絶えたというご家庭もありますし、ご身内がいなくなったということは、その人の存在がなかったことになる。彼らの存在した事実を消してはならないということでやっていますので、真珠湾攻撃の調査、再調査をして、これだけの人数が出てくるというのは、非常に意義があったのではないか」
実は 真珠湾攻撃を前に海軍が訓練に励んだ場所が、鹿児島県の錦江湾でした。
真珠湾のと地形が似ているということで、錦江湾で演習した上で日向市の富高や大分県の佐伯などの基地で仕上げの訓練を行い、隊員たちはハワイへと向かいました。
後世を生きる私たちが戦時下で起きていた出来事を知ることで、家族すら知らなかった新たな事実が分かることもあります。
このことが日本が二度と戦争に関わらないことへの教訓へとつながっていきます。