長野県の伝統工芸品「龍渓硯(りゅうけいすずり)」。その歴史は古く、江戸時代から辰野町に伝わる硯ですが、生産者の減少で技術の継承が課題になっています。後世に伝えたいという作り手の指導のもと、高校生や大学生が硯作りに挑戦し、石の美しさ、質の高さなどその魅力に触れています。


静寂の中、墨をする音が響きます。書と向き合う前に心を整える時間です。

伊那市の書家・泉石心(本名・逸男)さん(66)。使っているのは、辰野町に伝わる県の伝統工芸品「龍渓硯」です。

書家・泉石心さん:
「するときも、吸い付くような感じでとても気持ちいいです」

少ない字数の書を得意とし、生き生きとした作品を書く泉さん。実は龍渓硯の作り手でもあります。

泉さん:
「墨がいっぱいたまるように、垂直ではなくえぐる感じに」

力強くも繊細な作業が続く硯作り。一つの作品に半年から1年かけ、丁寧に仕上げます。

泉さん:
「彫ってる時は、いろいろ考えないで必死に彫るんですが、だんだんその形になっていく。自分が想像していた理想の形に近づいていくところ、そして完成した時ですかね、喜びというかね」

龍渓硯は江戸時代末期に制作が始まり、旧高遠藩が江戸に広めたとされ、1987年、県の「伝統的工芸品」に指定されました。

もとになるのは、辰野町の横川渓谷で採れ、2億年以上の歳月を経てできたとされる「黒雲母粘板岩」。表面は鉄の酸化で金や鈍い黄色に変化します。その独特の色合いを生かすのが、龍渓硯の特徴です。

泉さん:
「この色が本当に日本の硯の中でも一番って言っていいくらいきれいな色がつくので、形も色も世界に一つだけのもの」

一方、黒い石を磨きあげた作品は、深い艶のある美しさ。まさに石の芸術です。

硯作りの職人は明治時代には100人以上いたとされますが、筆が使われなくなったことや、墨汁が普及したことで、硯の需要が減り、職人の数も大きく減少しました。

泉さんの師匠だった翠川希石さん。高校の書道教諭をしていた縁で約30年前に出会い、工房に通ううちに硯作りを教わるようになりました。

泉さん:
「自然の(造形が作る)美しさにまず魅了されて。すった時の、その吸いつくような感じが心地よくて、ちょっとやってみようかなっていう。それがいつの間にかのめり込んでしまった」


転機となったのは10年ほど前。2014年に翠川さんが急逝し、その前後で高齢の作り手が相次いで亡くなりました。そして、龍渓の硯作家は泉さんを含め2人だけに。

泉さん:
「日本の中でも(硯を)代表する龍渓なんですけど、どこまで名前が残っていくか、若い人たちはほとんど名前も知らない状況なので、自分としてできることがないのかなと」

2018年に教員を早期退職し、硯の制作にさらに力を入れるようになりました。

泉さん:
「彫るのはいつまでたっても何年やっても、思うようにはいかないですけどね」

師匠・翠川さんから受け継いだ「刀(とう)」を使って―。

泉さん:
「硯は『一面』『二面』と数える。面=人の顔と同じように作家によって、顔が違うんです。翠川さんが『(人に渡すときは)娘を嫁に出すような気持ちだ』と言ってたんですけど、愛情を込めて作ったからこそ、そういう気持ちになる」

細部にこだわり、なめらかな線で仕上げた、泉さんの自信作です。

泉さん:
「カーブのところを曲線をきれいに出して、大きさも大きいですが、かなり時間をかけて制作したもの」

対照的に、こちらは厚さ10cm以上の石を使い、自然の造形を生かしました。

泉さん:
「なかなかこれだけ厚い石はない。渋いこげ茶色で」

作品は県内外の工芸展に出品し、魅力を発信。いま、泉さんが力を入れているのは、龍渓硯を後世に残す取り組みです。

11月7日、長野市・信州大学教育学部。

泉さん:
「世界の一つだけの芸術作品を作るつもりで、頑張ってきれいな作品を作ってみてください」

普段、非常勤講師として教えている高遠高校書道専攻の生徒と、信州大学の学生が共に学ぶ「高大連携」の学習です。

生徒たちは、泉さんから龍渓硯について学び、夏から自分の力で制作を始めました。
1人1人、石の個性に合わせてデザインを考えて彫り進め、いよいよ最終段階です。

砥石やサンドペーパーで表面を磨き、形を整えます。

高遠高校・書道専攻の生徒:
「力がいりますし、周りがなかなか削れないところも難しい。自分が最初から作ったので、これからも使っていける硯にしていきたい」
「めっちゃ腕が疲れちゃって。でもどんどん形になってくるので、やってて楽しいです。自分の手で作ったんだ、っていう喜び」

泉さん:
「もうちょっとこういう角やっても(磨いても)いい」

難しい作業ですが、大きなやりがいを感じている生徒たち。完成したあとはそれぞれの高校や大学で、展示の機会を設ける予定です。

泉さん:
「だいぶ慣れてきて、最近は彫れるようになってきた。まあまあの出来、楽しみにしたいと思います」


この日は、龍渓硯をどう残していくか、ディスカッションも行いました。

高校生:
「(小中学校で)プラスチックとガチの硯と比べてみて、『すごいでしょ』って」

大学生:
「友達にすすめるって、どうやってやる?」

高校生:
「買ってよ、って(笑)」

「書写・書道の授業で子どもたちに伝える」「SNSで発信する」など、自分たちができることについて考えました。

高遠高校・書道専攻の生徒:
「貴重な体験をいろんな人にやってもらいたいですし、自分もこういう経験をしたことによっていろんな人に伝えられたら」

信大教育学部の学生:
「将来は教育現場に立ちたいという思いがあるので、これを子どもたちに見せて、硯がどんなものか知ってもらえたらいいな」

地域の講座や講演会などでも龍渓硯を伝える活動を続ける泉さん。硯作りの後継者の育成には課題は多いものの、「信州の宝」と思う龍渓硯の魅力をこれからも発信していくつもりです。

書家・硯作家・泉石心さん:
「できるだけこの時間をかけて、自分の気に入ったものを作っていきたい。自分で作って楽しむというだけじゃなくて、多くの人に見てもらう機会があればいいかな」

長野放送
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