守備率日本記録達成もゴールデングラブ賞は正田に?…伝説

徳光:
1987年の話になるんですけど。守備率がですね、9割9分7厘。当時のこれ日本記録ですよね。これ覚えていらっしゃいますか?

高木:
覚えています。

徳光:
ところがゴールデングラブ賞は高木さんではなかった。

高木:
そうですね。正田(耕三)だったですね。

徳光:
ですよね。

高木:
記録って何なのかなと思いますよね。

徳光:
受賞を確信しますよね、これはね。

高木:
(受賞者の)発表が3時ぐらいだったんですよね。
当時、横須賀の練習場で僕練習していて、帰り際に新聞記者の人に聞かれたんですよ。もう受賞間違いないからちょっとコメントくれと。
でもちょっと、一抹の不安があったんで、これ(選出方法が)記者投票なんで。
いやちょっと、もし取れなかったら、「もうこんな賞二度といらない」っていうのを出していいからみたいな。取れなくて、それが出ちゃったんですよ。あら、みたいな。
それから二度と取れなかったです。いや失敗したなと思って。
でも日本記録を作って取れないのって何なんだろうなとは思いますよね。

徳光:
ただあの時は、篠塚(和典)さんと正田さんが首位打者争いを。

徳光:
そうなんですよね。ベストナインは篠塚さんがその年取って。

高木:
ゴールデングラブと分け合ったという。

徳光:
なるほど。だから言ってみれば正田さんに同情票が集まったと言いましょうか。

高木:
かもわかんないですね。

「来た球を打つ」打撃 14年間で8度の「3割超え」伝説

徳光:
14年の現役生活の中で、3割を超えたのが8回あるという。これは大した記録ですね。
ちょっとバットがあるんですけど、高木さんのバットコントロールというのはどういうような形でやっていたか、見せていただけますか?
インコースとかアウトコースとか、あるいは変化球やなんか。

高木:
変化球?僕は変化球はあまり狙わないタイプなんで。

徳光:
そうなんですか。

高木:
来た球を打つタイプなんですよ。一番速い真っすぐ、ここを待ってるんですよね。
ここより上は打たないし、ここだったら打つという、振る、一番速いボール。
だんだん遅くなるわけじゃないですか。だからまずここを待っていて それより遅いボールは待って打つという。
これが変化球であっても、ここから前に出なかったら、ひざで“ため”を作って打つという、それだけなんです。

徳光:
“ためを作る”って言ったじゃないですか。そんな簡単にできるもんじゃないんでしょう、あれは。あの“ため”はどうやって作るんですか?

高木:
(ボールが)遅かったらたまりませんか?っていうような感覚なんですよ。やっぱりこれ、経験がなせる技だと思うんですよ。いろんな「どんな練習をしてきたか?」っていう。
高校の時から、変なろうそく立てたりだとか、いろいろしながら。

高木:
あとはやっぱりね、想像力で。例えば真っすぐで攻められている。でも抜かれたみたいな、ここで“ため”を作って振る練習をするわけです。そしたらそれが実写となってきた時に、カーブがパッと来たときにハマるっていうか。
そういう想像しながらの練習の積み重ねで、そこじゃないですかね。
そこが一番大事なところで。

徳光:
その今のバットコントロールの完成品っていうのは、いつごろ出来上がったんですか?

高木:
やっぱり32歳(プロ10年目)ぐらいの時ですかね。
やっぱりそこまでは試行錯誤しながら。

徳光:
3割打ってた時の、その20代の時のその3割打ってた時と、30代、10年目以降の3割って、自分の中で違うんですか?

高木:
やっぱり率が上がってますよね。

徳光:
「.333」とか「.323」、そうだ。
でもこうやって見ると、あらためてずっとコンスタントに。けがした時とかもないってことですか、大きなけが?

高木:
毛がなくなった年はずいぶんあるんですけど、けがした年はあまりないですね。

大洋から日ハムへ移籍…そのウラ側は

徳光:
1994年に日ハムに移籍するわけですが、これはちょっとね、われわれ本当に驚いたんですけど。
経緯はどういう経緯だったんですか?

高木:
経緯は、駒田(徳広)をFAで取りたいという、その資金調達ですよね。給料が高い人間から切っていったという。

徳光:
イチローはご覧になりました?その時。

高木:
イチローが200本打つ年ですね。

徳光:
あの年ですかね。

高木:
すごいなと思いましたね。
その当時、広瀬っていうショートが日本ハムで守ってたんですけど、とにかくセンター寄りに守ったら三遊間に打たれるし、三遊間寄りに守ったらセンターに打たれる。(守備の隙間を)狙って打ってんのかねみたいな。そのぐらいバットコントロールがすごかったです。