「ひろしま棚さんぽ」です。
きょうは広島の歩みと発展を見守り戦後復興のシンボルとして多くの市民に親しまれるあの場所を取材しました!

【塚本恋乃葉さん・棚田徹さん】
「いいすね、眺め」
「きれいですね」
「ねぇ~。ピースウイング、大きいですね。この前取材させてもらった」
「グリーンアリーナ」
「はい。おりづるタワーも見えます」
「見えるねぇー。リーガも見えるし…やっぱり気持ちがいいね。こういう所は!」
「はい。ここがどこかと言いますと…広島城にやってきています。見えるかな?見えてるのかな」
「手を振ってくれたらいいのにな、無反応ですね」
「あ!観光客の方が振ってくれました」
「観光客の方とか」
「どうですか、来たことありますか?」
「ものすごく久しぶりですよ、もしかしたら30年ぶりとか」
「えー!変わっていますか?」
「変わった。あの辺の建物も全然なかったし、ピースウイングはもちろん無いし、恋乃葉さんは来たことは?」
「私はあります」
「あるの?」
「なんかお仕事の間に来たことがあって」
「昔はこれより高い建物なかったはずですから、もっと眺めが良かったでしょうけどね」「あー、そうですね」
「今日はどうするんですか?」
「いつも通り辿っていくんですけど、(広島城の)歴史、詳しく知ってますか?」
「ん?あの…」
「大丈夫です。わからなくても」
「大丈夫?なんで?」
「そんなことは天の声が全部やってくれるんで。そうですよね?」

はい。はーい。
呼ばれて飛び出てジャジャジャジャーン。
どうもK(天の声 Kアナ)です。
恋乃葉さん、すっかり甘え上手になりましたね。
ではご要望にお応えして、広島城の歴史を振り返りましょう。
広島城は1589年、中国地方の大大名、毛利輝元公が築城を始め、およそ10年もの歳月をかけ、完成しました。

【塚本恋乃葉さん・棚田徹さん】
「はい、はい、はい」

その広さはおよそ90万平方メートル、マツダスタジアム25個分に相当し、最盛期には88基もの櫓を備えた巨大な城でした。

【塚本恋乃葉さん・棚田徹さん】
「ひろーい」
「巨大な城だったんだね」

その後、広島城は1931年に天守閣が国宝に指定され、原爆投下によって倒壊するまで広島の街を代表する建築物でした。

【塚本恋乃葉さん・棚田徹さん】
「あ、これ倒壊する前?」

現在の天守閣は1958年に開かれた広島復興大博覧会に合わせて、わずか10カ月で建てられ、鉄筋コンクリート造りの歴史博物館へと生まれ変わりました。
それではここでミッションです。
広島城に関わる、人の思いを取材してください。
それでは、いってらっしゃい!

【塚本恋乃葉さん・棚田徹さん】
「なるほど」
「広島城に関わる方の人の想い…」
「広島城を良くしようと頑張っている方々…わかりました」
「気になります」
「ついていきます」
「行きましょう!」

それでは広島城で『ずきゅん。』を探してまいりましょう!

天守閣の中では模型やパネルを使って広島の城下町の発展や当時の生活の様子を展示し、鎧や甲冑なども見ることができます。
まずは最下層の第1層から城内をめぐります。

【広島城 高土尚子 学芸員・塚本恋乃葉さん・棚田徹さん】
「一番、見所の一つになるんですが、こちらがですね、金箔シャチ瓦。鬼板瓦。
これは割と小ぶりなので、おそらく櫓とか、小さい門とか、そういったところに上がっていた物じゃないかと。形もとてもきれいな状態で井戸の中から見つかっています」
「井戸の中?」

この鯱瓦は2009年、天守閣から400mほど離れた広島合同庁舎建設予定地の井戸跡で見つかりました。
オス・メス一対の金箔張りの鯱瓦がほぼ完全な形で発見されたのは、全国で初めてのことでした。

【広島城 高土尚子 学芸員・塚本恋乃葉さん・棚田徹さん】
「なんでまた井戸の中に隠したんですかね?」
「もともとそういった門とか、櫓の上に乗っかっていた物を丁寧におろして、井戸の中にきれいに埋めたんじゃないかというふうに言われています」
「本来色が着いていたということですね?」
「そうですね。しっかり金箔も押してあるし、とてもきれいなもの」

さらに広島城の歴史を知る上で、貴重な映像があるそうで、さっそく見せてもらいしょう!

【広島城 高土尚子 学芸員・塚本恋乃葉さん・棚田徹さん】
「文化博。んー?なんだこれ。これ、広島城ですか?」
「はい」
「んー?天守ですね」
「これ戦後間もない」
「あ、戦後ですか」
「なんですけれども、今の天守閣と比べて、ちょっと違いとか…はい」
「これ、ちっちゃいでしょ?」

「そうなんです。小さいです、はい」
「え?」
「天守台はずっと変わってはないんですが、それと比べてみると、一回り…」
「台に比べて小さいですよね」
「台に比べて小さいんです」
「なんで象がいるんですか?」
「こちらがですね、昭和26年の体育文化博覧会」


「あ!ジェットコースター」
「戦後まもなくでこれですか?」
「いわゆる国体ですね」
「あ、国体ですか?」
「はい、国体の前身の大会の一つで、こういう風に仮の天守が作られてジェットコースターもできたんですが、イベントが終わったら、こちらはすぐ取り壊されてしまって」
「あ!イベント期間だけの天守?」
「なので、もう本当わずか数か月ですし、形とかもちょっと今と違いますよね?」

終戦からわずか6年後の1951年、広島国体の開催に先立ち、広島城跡一帯で体育文化博覧会が開催されました。
2代目天守はそれに合わせて造られ、わずか半年程度で姿を消した、まさに幻の天守なのです。

【広島城 高土尚子 学芸員・塚本恋乃葉さん・棚田徹さん】
「これいわゆる、テレビのセットみたいな感じ?」
「そんな感じですね」
「中には入れない?」
「中はですね、そのジェットコースターの乗降口」
「あー!城から乗るっていう」
「そうです」
「それはそれで面白いですね」
「これはおそらく全国にも例がない」
「例がない」
「ですよね」
「天守ができたことで、『あ!広島にはこういうお城があったんだ。このお城をもう1回建て直して、広島の復興をPRしよう』っていう。復興のシンボルとして今の天守が造られました」
「知りませんでした。こんなことがあるなんて」

さらに輝元公にはお城だけじゃない、広島とのつながりがありました。

【広島城 高土尚子 学芸員・塚本恋乃葉さん・棚田徹さん】
「で、この広島城の広島って言う名前が、ちょうど輝元が広島城作った頃から見え始める地名なんですね。それより前は、この辺りは広島という地名は資料として残っていなくて。
五箇とか、五箇村とかって呼ばれていたんですね。広島という名前がちょうどこの輝元が広島城作る時に『広島に城を作る』っていうような手紙で残していて。それが一番最初に出てくる『広島』という地名になるんです。この輝元が広島城、ここにお城を作ったことで、今の広島の街があるっていう…もう広島の基礎をつくった人って言っても過言ではないですね」

「輝元ってすごい人だったんですね」
「そうですね様様ですね」
「この広島があるのは、輝元のおかげと言ってもはい、いいですね」

【塚本恋乃葉さん・棚田徹さん】
「あー!キャーかわいい」
「なんというキャラですか?」
「しろうニャですよ。何で知らないんですか?」

次回は、広島城で活躍するマスコットが続々登場!お城をもっと知ってもらいたい!学芸員の愛が溢れていました。

<スタジオ>

テレビ新広島
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