一度は死刑判決が確定した袴田巖さん(89)がやり直しの裁判=再審で無罪判決を勝ち取ってから9月26日でちょうど1年となった。ただ、“真の自由”を手にした今も意思疎通が難しい状態にある。一方で、姉のひで子さん(92)は再審法の改正を目指して闘い続けている。

1966年6月30日に静岡県清水市(当時)にある味噌製造会社の専務宅が燃え、焼け跡から多数の刺し傷がある一家4人の他殺体が見つかったほか、多額の現金などが盗まれた強盗殺人放火事件をめぐっては、同年8月に元プロボクサーで味噌工場の従業員だった袴田巖さんが逮捕された。

袴田さんは当初犯行を自白したものの、裁判では自供を強制されたとして一貫して無罪を主張したが、事件から1年2カ月後に味噌樽の中から大量の血痕の付着した衣類5点が見つかり、静岡地裁はこの“5点の衣類”を決定的な証拠として死刑を言い渡す。

その後、東京高裁は袴田さんの控訴を棄却し、最高裁も上告を退けたことで1980年11月に死刑が確定。弁護団は裁判のやり直しを求めたが、静岡地裁、東京高裁、最高裁のいずれも請求を認めなかった。

ただ、2008年に再び裁判のやり直しを請求すると、“5点の衣類”に付着した血痕のDNAが被害者のものとも袴田さんのものとも確認できなかったことなどから、静岡地裁が2014年に再審開始を決定するとともに袴田さんの釈放を許可。

この決定は東京高裁によって一度は取り消されたが、最高裁が「審理を尽くさなかった」として差し戻すと、2023年3月になって裁判のやり直しが認められ、検察側が特別抗告を断念したため再審開始が確定した。

15回に及ぶ審理を経て、静岡地裁の國井恒志 裁判長が袴田さんに対して言い渡したのは無罪判決。さらに、静岡地裁は犯行着衣とされた“5点の衣類”など3つについて捜査機関による証拠の捏造を認定した。

死刑が確定した事件の再審は日本の刑事司法の歴史において5例目で、いずれも無罪が言い渡されたことになる。

あの日からちょうど1年。

袴田さんは約半世紀に及ぶ拘禁生活の影響から今も意思疎通が難しい状態にあり、姉のひで子さんは「精神的なものなので治らないと思う。私は見守っているだけ。自由にしておくのが一番の薬だと思う」と話す。

とはいえ、袴田さんが外出した際に支援者や市民などから「良かったね」と声を掛けられる機会も多く、ひで子さんは「雰囲気をつかんでいる。だからだいぶ明るくなった。表情が良くなった。柔らかくなった」と喜んだ。

一方で、「無罪になったこと、死刑囚ではなくなったことはありがたいと思っているが、この1年で特に心境(の変化)とか、そういうものはあまりない」とも打ち明ける。

それは2014年3月27日に最初の再審開始決定を受けた時の嬉しさがあまりに大きく、「あの時に勝ったと思っている」からだ。

ひで子さんには常々口にすることがある。

「巖だけ助かればいいという問題ではない」

この言葉を裏付けるかのように、この1年で行った講演は40回以上に及び、北は北海道、南は鹿児島まで全国を飛び回った。

もちろん、審理の長期化など不備や課題が指摘されることも多い刑事訴訟法に記された再審規定の改正を求めてのことだ。

原動力は「(袴田さんが)無罪になったことで、みんな励みにしていると思う。それに応えるように私は行動したい。58年、せっかく闘ってきたのに、ここで“しょぼくれて”いてしまってはどうしようもない」との思い。

ひで子さんは「私はまだ元気だから頑張っていきたい。命ある限り頑張っていくつもり」と前を向きつつ、「真実を求めて頑張っていけば無罪になるということを巖が証明している。冤罪で大勢が何年も苦しんでいる。そういう人たちのためにも再審法改正はぜひ実行してもらいたい」と期待を寄せた。

テレビ静岡
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