車中泊で全国を旅する女性画家がいる。その女性画家が1年間の定住先に選んだのは、新潟県弥彦村にある国登録の有形文化財「旧鈴木家住宅」。女性画家が歴史的な古民家で暮らすことを選んだ理由と1枚の巨大な絵と向き合う挑戦に迫った。
築223年の古民家で生活始めた女性画家
新築を思わせる整った寝室の扉を開けると、そこに広がるのは築223年の日本家屋。新潟県弥彦村にある国登録有形文化財・旧鈴木家住宅だ。

ここに6月から暮らしているアニー・レナ・オーバマイヤーさん(29)。
この日の朝食は、飯ごうで炊いたご飯に味噌汁、鯖の塩焼きと手作りの副菜。縁側に座り、中庭を望みながら一人静かな朝食の時間を過ごしていた。

アメリカ人の父と日本人の母の間に生まれ、京都で育ったアニーさん。
大学卒業後は、車中泊などをしながら全国を巡り、オーダーを受けた人の似顔絵や冠婚葬祭のポートレートを中心に手がけていたが、3年ほど前から「自分の描きたいものを自由に表現したい」と思うようになり、今は画家として活動している。
そんな新潟にゆかりもない女性画家が、なぜ弥彦村の古民家で1人暮らしを始めたのか。きっかけは、アニーさんが旅の途中で弥彦村に立ち寄ったときの出会いだった。
偶然の出会いから訪れたチャンス
当時、村の活性化に取り組むアートチームと建物を管理する団体は、アーティストが歴史ある旧鈴木家住宅で1年間暮らしながら巨大なアートを描く「アーティスト・イン・レジデンス」を企画していた。

アニーさんは、旅の中でプロジェクトの企画者・森田幸尚さんに偶然出会い、「弥彦に住んでみないか」と誘われ、二つ返事で引き受けたという。
この時の思いについて、アニーさんは「舞い込んできたものに対して受け入れたら始まることってある。自分の握るハンドリングじゃない方に進むというか『こっちの波に乗ったらどうなるんだろう』と純粋に思った」と振り返る。
「この取り組みが起爆剤に…」企画者の思い
今回、アーティスト・イン・レジデンスの舞台となるのは元々、彌彦神社の神職の住居として建てられた旧鈴木家住宅。

明治時代には政治家の岩倉具視も宿泊した由緒正しき建物で、アニーさんの入居に合わせて寝室はリノベーションされたが、今でも建築当時の趣が色濃く残っている。
森田さんは、「この取り組みが起爆剤となって誰かに響けば、それが街作りにつながって、好循環が生まれるのでは」とアニーさんへの期待を口にする。
「修行僧になるつもりで」弥彦でしか描けない絵を…
画家になってから、間借りのシェアハウスを転々としていたアニーさんにとって、定住するのは初めて。

旧鈴木家住宅への入居日となった6月、アニーさんは「修行僧になるつもりで来ていて、1年間SNSも制限して、作ること描くこと、この地から自分が受け取るものを形にすることが表現だからいいものを見せられたら」と意気込み、その言葉には熱がこもっていた。
歴史的価値がありながら忘れられていた古民家に新しい風が吹き始めた瞬間だ。
引っ越しを済ませ、アニーさんが向かったのは、弥彦村の建築会社。使用済みの床板を再利用し、そこに絵を描くという。建築会社の二村清人社長は「私たちの建築材料に、アニーさんの手で新しい命が吹き込まれるのであればうれしい」と期待を寄せた。
広いアトリエで描く 目に焼き付いた風景
アニーさんのアトリエが整ったのは、それから半月後。
約30畳の和室に、譲り受けた板が敷き詰められ、ついに筆を握った。

絵のテーマは、アニーさんが弥彦村を訪れる道中に車窓から見た日本の「山道」。
「日本の山はなだらかに重なり続けてその重なり方は日本の着物や国民性の柔らかさとも親和性があると感じ、その重なりを一周するように描けたらいいなと思っている」と完成に向けたイメージを語る。
生活の中で見える弥彦の風景を絵に
絵を描き始めて2週間。イメージを膨らませながら真っさらだった板に色が重ねられていた。

「この家の中庭とか、切り取られて見る空の色とかに日々影響受けている」と自分の心のフィルターを通して見えた弥彦の風景も、創作活動に生かされているようだ。
絵を描く一方で、弥彦村での生活にもなじんできた様子のアニーさん。
散歩中に近所の和菓子店に行くことが楽しみの一つだという。アニーさんは「人の距離が近く、特にご年配の方は親しみを持ってくださるから嬉しい」とその温かさに胸を打たれていた。弥彦の自然や人とのふれあいからもインスピレーションを受けるアニーさんを支援しているのは、弥彦村の人だけではない。
支援者への返礼品は“絵” その理由は…
このアーティスト・イン・レジデンスは、企画段階でクラウドファンデングが行われていて、111人の支援者から約147万円の寄付が寄せられていた。支援者に贈られる返礼品は、大きな作品の原画の一部。

2026年5月には旧鈴木家住宅で開かれるアニーさんの個展で返礼品のパーツが抜き取られた作品を展示する予定となっている。返礼品を受け取った支援者には自分の絵はどの場所にあったのか、想像しながら楽しんでもらうことが狙いだ。
「絵って暮らしの中での窓だと思う。支援者さんにとって絵があることで何かいい風に空気が変わるものになればと思っている」と話すアニーさん。
20畳の大きな絵が一つの窓となって見る人の心を揺らす。
静かな部屋で筆を重ねていく日々はまだ始まったばかりだ。