1972年、アメリカの統治下にあった沖縄県が日本に返還されました。この沖縄返還をめぐってアメリカと秘密交渉にあたり核兵器の持ちこみに関する「密約」の作成に関わったのが、越前市出身で国際政治学者の若泉敬氏です。
  
戦後80年に当たり、若泉氏が沖縄県知事らにあてた遺書が、所有していた県内の男性から、今秋、沖縄県に寄贈されます。遺書に込められた思いや若泉氏の人柄に迫ります。

◆アメリカと密約結び沖縄返還を実現

【2025年6月 沖縄県・慰霊の日式典】
  
伊良波小6年・城間一歩輝さん:
「一年に一度だけおばあちゃんが歌う。『うんじゅん わんにん 艦砲ぬ くぇーぬくさー』沖縄戦の激しい艦砲射撃でけがをして生き残った人のことを『艦砲射撃の食べ残し』ということを知り悲しくなった」
  
20万人もの命が失われた、住民を巻き込んだ地上戦。その沖縄戦から80年を迎えた今も米軍基地が集中する沖縄では、大きな負担が続いています。


沖縄返還をめぐって人知れず苦悩を抱えていたのが、福井県越前市出身の国際政治学者・若泉敬です。
  
当時の佐藤栄作総理大臣の密使として、外務省とは別にアメリカと秘密交渉にあたり、沖縄返還を実現させました。
  
ただ返還の裏には、有事の際には核兵器を再び持ち込むことを認めるという「密約」がありました。

◆沖縄の人に対し抱いた自責の念

若泉は、この「密約」にあたっての沖縄の人々への思いをしたためていました。
 
越前市文化県都推進課・奥谷博之さん:
「こちらは平成6年6月23日沖縄慰霊の日に、若泉敬さんによって沖縄の皆さまや県知事らに宛てて書かれた嘆願状です」
 
若泉が沖縄県民あてに書いたこの“遺書”は、これまで県内の男性が保管していましたが、戦後80年の節目に本来行きつくべきところへ届けたいと沖縄県へ申し出たことから、寄贈が決まりました。

この嘆願状には、沖縄県民への謝罪の言葉が散りばめられています。
 
『お詫びするに言葉がありません。沖縄県民の皆様のご平安とご多幸を、そして沖縄県のご発展を心底より祈念しております』(嘆願状より)
 
越前市文化県都推進課・奥谷博之さん:
「若泉さんは、沖縄返還に関わった者として重大な結果責任を果たすために、沖縄の方に申し訳ないという思いがしたためられている」
 
『歴史に対して背負っている私の重い結果責任を執り、国立沖縄戦没者墓苑において、自裁します』(嘆願状より)
 
越前市文化県都推進課・奥谷博之さん:
「沖縄返還に関わり、これでよかったのかという色んな思いがあったと思う。苦悩の結果が嘆願状に表れている」

◆自宅で命を絶った若泉氏、教え子が墓前に

この日、若泉によると「まだやるべきことがある」と天の啓示があり自裁を思いとどまりましたが、自責の念が消えることはなく、2年後、自宅で自ら命を絶ちました。
 
越前市文化県都推進課・奥谷博之さん:
「若泉さんは、福井の地方都市から世界の第一線で活躍した人物。地方の人物でも世界で活躍できることをこの資料を通じて分かってもらうとともに、世界平和や世界に置ける日本の状況を考えてもらうきっかけになれば」
  
2025年7月に30回忌を迎える若泉の命日には、若泉が教授を務めた大学の教え子らが集まり鯖江市で墓参りをしました。
  
中川芳男さんが、恩師の思い出を語ってくれました。
 
京都産業大学同窓会 福井県支部・中川芳男さん:
「若泉さんに『中川くん、世界で有名な政治家でも大統領でもいい、会いたい人はいないか、会わせてやるよ、誰かいいなさい』と言われたが、とても言えなかった」
 
忙しい中でも学生を気にかけていたのは“世界に目を向けてほしい”というメッセージだったのではと振り返ります。

中川芳男さん:
「世界平和という問題に対し、人のつながりをもって問題を解決して欲しいという考えがあったのではないか」

恩師が残した言葉は、今なお教え子の心に刻まれています。

若泉の嘆願状は9月末以降、沖縄の公文書館へ寄贈されます。

福井テレビ
福井テレビ

福井の最新ニュース、身近な話題、災害や事故の速報などを発信します。