それは終戦目前の頃だった。佐賀市に焼夷弾が次々に投下され多くの命が奪われた「佐賀空襲」。焼夷弾の火の粉に襲われ幼い弟を亡くした女性は「終戦があと10日早かったら…」家族の運命は変わっていたと語る。

出征した父から“最初で最後の便り”

佐賀・太良町に住む田代多津枝さん(89)。昭和16年(1941年)、太平洋戦争が始まった当時、田代さんは現在の佐賀市諸富町、新北村の寺井津浮盃で暮らしていた。

この記事の画像(10枚)

戦争が始まって2年。田代さんが小学2年生の頃、父・下村敬太さんが第一補充兵として出征することになる。

田代多津枝さん:
父が出征のあいさつをするとき私は涙が出て、家の角に隠れたごとして涙を拭いて。父がそれに気付いたんじゃないでしょうか。『あんたが一番年上だから、お母さんにちゃんとお手伝いしてあげないといかんよ』と。それは本当に耳に残っています

1944年、「三カ月の教育召集で久留米五十二部隊に入隊し、その後北ボルネオ」と書いた葉書が父からの最初で最後の便りとなったという。

幼い弟を襲った焼夷弾の火の粉

翌年、昭和20年(1945年)8月5日、田代さんが小学4年生のころ。夜中に空襲警報が鳴り響いた。佐賀市南部を中心に約30機の爆撃機から焼夷弾が投下された「佐賀空襲」だった。

田代多津枝さん:
夜中の12時ごろでしたけど、ヨシが生えている堀の中に腰まで漬かって。そして動くな動くなって。そしてその時はB29が空いっぱいというように飛んでいました

田代さんは、腰まで漬かった堀の中から家や倉庫が燃えるのを見ていたという。

堀の中までは焼夷弾は落ちてこなかった。しかし、逃げ込むまでの間に弟・亀美夫さんに焼夷弾が襲いかかる。

田代多津枝さん:
ランドセルと防空頭巾の間に焼夷弾の火の粉がちょうどその間に

やけどを負った弟・亀美夫さんは、県立病院に運ばれたが、3日後の8月8日に亡くなった。国民学校1年生。1学期だけの学校生活だった。

医者を見て『あっ、父ちゃんだ』

田代さんの母、愛さんがこの時の様子を戦争体験記につづっている。

「無(亡)くなる前日は高熱で、意識朦朧の中、眼鏡を掛けられたお医者さんを見て、『あっ、父ちゃんだ』と叫び、飛び起きた姿が、今も私の脳裏にこびり付いています」
(藤津郡遺族会の歩みと戦争体験記)

約1時間半にわたる佐賀空襲は、443棟の家屋を焼き、死者は61人にのぼったとされている。

田代多津枝さん:
“あめあられ”って言うでしょう。そんな風にもうバンバンバンバン降ってきたんです。それはもう口では言い表せないような光景でした

「終戦があと10日早かったら…」

家も空襲で焼けてしまい、田代さんは母の実家である現在の佐賀県太良町、竹崎に身を寄せる。そして佐賀空襲から10日経った昭和20年(1945年)8月15日、終戦の知らせを聞いた。

田代多津枝さん:
終戦になると聞いたときは泣いたですね、私。だいぶ泣いた。終戦があと10日早かったらねって思うぐらいに…あのときは4年生だったけど、そんな思いをしたのは今でも覚えています。とにかくもう二度と戦争をしてはいけないというのが私の気持ちです。絶対戦争はだめ。そして平和が何よりです

(サガテレビ)

サガテレビ
サガテレビ

佐賀の最新ニュース、身近な話題、災害や事故の速報などを発信します。