「歴史に対して負っている私の重い結果責任をとり自裁します」との言葉を遺し66歳で自ら命を絶った国際政治学者・若泉敬氏。沖縄返還に際し、佐藤栄作総理の密使としてアメリカと交渉し、緊急時には沖縄への核兵器の再持ち込みを認めるという密約に関わった人物だ。没後30年、沖縄のメディア関係者は「沖縄に対して申し訳ないと、自裁を覚悟するまで申し訳ないと思った大和の人に初めて会った」と彼の遺徳をしのんだ。
福井の地に眠る沖縄返還の密使
市街地を眼下に臨む福井・鯖江市にある総山墓園に、若泉氏の墓がある。
大きな地球儀が象られ、若泉氏が生涯大切にした「志」の文字が刻まれた台座には、沖縄を象徴するシーサーが置かれている。
福井・越前市出身の若泉氏は1972年の沖縄返還に際し、当時の佐藤栄作総理の密使としてアメリカと交渉した人物として知られる。その過程で、緊急時には沖縄への核兵器の再持ち込みを認めるという密約に深く関わることになった。
この密約が、若泉氏のその後の人生に暗い影を落とすことに。強い自責の念にかられた若泉氏は1994年、沖縄県知事と県民に宛てて「歎願状」いわゆる遺書をしたためた。
そこに記されていたのは「お詫びするに言葉がありません」という沖縄県民への謝罪の言葉。そして「歴史に対して負っている私の重い結果責任をとり自裁します」と返還交渉の結果責任を取るために自死する覚悟が綴られていた。そして約2年後、66歳で自ら命を絶った。
「いまの日本はこれでいいのか」厳しい言葉
若泉氏が亡くなって30年を機に県内有志の会が結成され、墓参り法要が営まれた。
2026年7月5日、若泉氏の墓前には60人が集まって手を合わせた。参列者の中には、学生時代に1年間若泉氏の家に居候していたという元外務事務次官の谷内正太郎氏らの姿もあった。
谷内氏は「若泉さんは、大事な話となると恐るべき迫力で迫る。亡くなる2、3年前には『いまの日本はこれでいいのか』と厳しく叱られた」という。
若泉氏の“遺書”の寄贈先である沖縄県公文書館の公文書管理課専門員・仲本和彦さんは墓前で「若泉さんから託されたバトンを福井のみなさんから沖縄へ。そして沖縄から未来へと責任をもって引き継いでいきたい」と語った。
「これは沖縄だけの問題じゃない」若泉氏が残した訴え
参列者の1人、沖縄のテレビ局に30年以上勤務し、沖縄で唯一、若泉氏と接触できたとされる具志堅勝也氏(71)は「若泉さんはこれまで出会ったことのない政府関係者の1人だった」と称する。
「政府関係者の言葉は、沖縄県民にとって、いつもあまりにも軽すぎる」と具志堅氏。「だけど、沖縄返還に携わった政府関係者の中で、初めて沖縄に対して申し訳ないと、自裁を覚悟するまで申し訳ないと思った大和の人(やまとんちゅ)だった」と若泉氏への信頼を語る。

沖縄が本土に復帰して半世紀以上が経ついまも、米軍基地は沖縄に全国の約7割が集中するという現状が続いている。具志堅氏はこの状況を、沖縄だけの問題として捉えるべきではないと強調する。
「軍備では沖縄は飽和状態で、これ以上強化するなら本土に作るしかない。いずれ本土が沖縄化されアメリカの思い通りに日本がどんどん軍備化されていく。沖縄からは、それがよく見えてくる」そして具志堅氏はこう続ける。「これは若泉さんも言っていた。沖縄だけの問題じゃない、いずれみなさんのとこに来ますよ、と」

若泉氏の生前の訴えは、没後30年を経てもなお、現実の問題として問い続けられている。
具志堅氏は今回の法要の意義について「若泉さんの足跡を通して沖縄返還が何だったのかを考える機会になれば、30年法要は意味がある」とした。
国家と平和の在り方について生涯をかけて問い続けた若泉敬氏。沖縄返還が何であったのか、そして私たちが果たすべき責任は何かを、いまも問いかけている。

