初夏の光が降り注ぐ沖縄県読谷村(よみたんそん)。激しい地上戦となった沖縄戦から81年が経った今も、その傷跡はそこかしこに残っている。
かつて戦場をさまよい、幼い妹の命を奪われた男性は、当時の凄惨な光景を絵で描いて記録している。
読谷村座喜味に暮らす喜友名昇(きゆな・のぼる)さん(86)。沖縄戦当時、わずか5歳だった喜友名さんは、自身の苛烈な体験や地域に残る戦争の記憶を20枚以上の絵画にしてきた。
「いま残しておかないと、誰が残すかと」

喜友名さんが描くのは、血を流し倒れる人々や爆風に追われる家族の姿だ。自身が目撃した地獄だけでなく、地域の生存者一人ひとりから聴き取った戦場の記憶の記録でもある。
記憶を呼び起こす作業は身を切るほど辛いが、風化への危機感が彼を突き動かす。

「いま残しておかないと、誰が残すかと。何だか責任感が湧いてくるんだ。何としても沖縄の戦争の悲惨さを子どもたちに残そうと思って。言葉は消えるから、絵に描いて残そうということでね」
遺体を並べた空襲の記憶

喜友名さんが初めて戦争を意識したのは、1944年10月10日、米軍が南西諸島を猛爆撃した「十・十(じゅうじゅう)空襲」だった。
「我々は戦争だと分からないから、近くのガジュマルに登って見ていたんだよ。そしたら小さい弾がばんない(たくさん)飛んでくる。そしたらうちのおばあが来て(私の)手を掴んで、近くに防空壕があったからそこに私は投げ込まれたんだよ。そのあとしばらくして、近くに爆弾が落ちた」
この爆撃で近隣住民12人が犠牲となった。

「即死した遺体を全部並べて。空襲がおさまった夕方には亡くなった方々の遺族が馬車に乗せたり、おんぶして行ったりしてね」
翌年4月に米軍が上陸。一家はガマ(自然洞窟)などを転々とする逃避行の中で、身内の理不尽な死にも直面した。目が不自由だったおじが「足手まといになる」という理由で、銃殺されたという。
「『足手まといになると言って殺された』と。『拳銃で撃たれて殺されたから片づけてちょうだい』と言われたものだから、走って行って土手にあげて。おじさんを引きずって連れて行って、穴を掘って埋めたんだ」
サンニンガーサ(月桃の葉)が茂る草むらの下へ、おじを自らの手で埋めるしかなかった。戦場は、人間としての感情も奪っていった。
感情が枯れてしまう

一家は座喜味城跡の近くで捕虜となり、都屋(とや)の収容所へ送られた。だが、そこで生まれたばかりの妹が栄養失調に陥る。
「本当に骨と皮ですよ。ひもじいだろうけど、一言も泣きもしない。ただ目がくりくりしているだけ。それを見ても私は5~6歳になるけど何も感じない。そこにいっぱい(親戚も)いるんだけどね。誰一人として涙を流す人はいないんですよ。これが戦争の恐ろしさだね」
感情が麻痺した大人たちの中で、母親は先に亡くなった親戚の胸に抱かせるように、幼い遺骸を埋葬地に置いた。

「妹を預けるときに母親の言葉『この子はいとこだから、一緒に(天国に)届けてちょうだい』と手を合わせたとき、初めてぽつりぽつり涙が出ましたよ。何もしてあげられなくて、ごめんなさいということですよ。夢に見るんです。今でもね」
戦争は他人事ではない

世界各地で今なお絶えない紛争。テレビに映る戦地の子どもたちの姿を目にすると、喜友名さんの記憶が否応なく音をたてる。
「とにかく何事にしても、他人事ではないんです」
喜友名さんは、ウクライナの子どもたちへの募金や寄付の活動に取り組んでいる。海の向こうの悲劇であっても、それはかつての自分そのものだからだ。
「戦争は遠い国の話だと思っているかもしれないけど、そうではないんだ。自分の足元にもこういう悲劇があったんだと子や孫にも伝えたいなと思うんです」

歴史を風化させまいと、喜友名さんは十・十空襲の犠牲者12人を悼む慰霊碑を私費で建立した。碑を見つめるその眼差しは、次世代への切実な祈りに満ちている。
「戦争ってこんなものなんだと、それをちゃんと記録として残したい。それが私の最後の願い。伝えてちょうだい。これが私の最後の仕事だ」

凄惨な戦火を生き延びた一人の記憶を焼き写した喜友名さんの絵は、今を生きる私たちにどれだけ考えても考え終わる事のない平和の重みを問いかけている。

