太平洋戦争で特攻隊員の指名を受けたものの出撃することはなかった男性。生き延びたと安堵した矢先、待ち受けていたのは過酷なシベリア抑留だった。“二度の地獄”を生き抜いた98歳の男性が戦争の記憶を語る。
追い込まれた日本軍…「特別攻撃」へ
太平洋戦争末期、戦局の悪化で追い込まれた日本軍。打開策として行ったのが「特別攻撃」だった。

戦闘機などに爆弾をつけてアメリカ軍の船に体当たりするもので、航空機による特攻だけで約4000人が戦死した。

戦争体験者が年々少なくなる中、佐賀市に住む元特攻隊員に話をきくことができた。その元特攻隊員は鳥谷邦武さん(98)。1943年、16歳で福岡県の大刀洗陸軍飛行学校に入校。歩兵の訓練や空中射撃に必要な学科の授業を受けたという。

「殴られ方から入った。訓練はものすごくきつかった」と鳥谷さんは入校当時を振り返る。

卒業後、鳥谷さんは朝鮮の学校で基本操縦を学び、現在の中国東北部・満州の部隊へ。ここで本格的な戦闘機の操縦訓練に励んだ。

その頃、追い込まれた日本軍は“必死”の作戦に踏み切る。「特攻作戦」だ。
「パイロットは消耗品扱いだった」
航空機による「特攻作戦」で出撃したパイロットたち。鳥谷さんは「パイロットは消耗品としての扱いだった」と語る。

戦友たちが次々と飛び立っていった。福岡県の大刀洗平和記念館には鳥谷さんの同期生を含む亡くなった特攻隊員の写真が展示されている。

鳥谷邦武さん(98):
命令が出るまでは冗談言い合っているけれども、命令が出て指名されたら、兵舎に帰ってきて私物の整理をしないといけない。あと1週間、10日で死ぬかと思ったら私たちも声かけられないし、本人も黙って私物の整理をしていた。その場面は今でも忘れない

「死にたくない」と何度も言っていた特攻隊員もいたという。
鳥谷邦武さん:
同期生がいくときは『お前たち来るなよ、お前たち来るなよ。特攻は俺たちだけで十分だ』と言いながら飛び立って行った。誰だって行きたくないと分かっていた
特攻隊員に指名「死刑の宣告と同じ」
そして1945年3月、鳥谷さんも特攻隊員に指名される。

鳥谷邦武さん:
命令を受けた時は足が震えた。前の人ががたがたと足が震えているのが見えた。死刑の宣告と同じだから

しかし約3か月後、激戦地の沖縄が陥落。特攻は中止された。
鳥谷邦武さん:
『沖縄には気の毒だけど俺たちは生き残ったぞ。ひょっとしたら内地へ帰れるかもわからんな。親と会えるかもわからんな』と言っていた。本当に命拾いしたというような感じだった
特攻隊員の次は…「シベリア抑留」
ところが、安堵したのも束の間、鳥谷さんに新たな地獄が待ち受けていた。それは「シベリア抑留」だった。
鳥谷邦武さん:
貨物列車に乗せられて『東京ダモイ(帰る)!東京ダモイ!』と散々騙されて

太平洋戦争終戦の直前にソ連・現在のロシアは日本と結んでいた条約を破り中国東北部などへ侵攻。とらえた日本兵などを連行し強制労働させるシベリア抑留を行った。約5万5000人が帰国できず死亡したといわれている。

鳥谷邦武さん:
満州から着て来た軍服だけで毛布も飛行服も略奪されて何もないから、持っているものを全部着て兵舎の中で寝た覚えがある
「希望が何にもない」極寒の地
終戦後、鳥谷さんが連れていかれたのは西シベリアの「ヤヤ第六収容所」。最低気温は氷点下63度にもなる極寒の地。食事は1日に小さなパンたった1つ。昼も夜もなく重労働を強いられ、栄養失調になったり空腹に耐えられず毒草を食べたりして多くの人が死んでいったという。

鳥谷邦武さん:
最もひどいのが死体をそりに4、5人乗せて引っ張ってきて、この辺でよかろうというところで降ろして死体を並べて真っ裸にして、凍っているからシャーンとして材木みたいになっている。5、6人並べて雪をかぶせてみんなで拝んで帰ってくる

その場を離れると仲間の遺体はすぐオオカミに食べられてしまい、次に向かったときには骨まで跡形もなかったという。
鳥谷邦武さん:
希望が何にもない。明日のことがわからない。食べ物も着物もない。このままボーっとなったままで死んでいくのかなと思ったことがあった。何でも考える気力がなくなってくる

鳥谷さんは2回冬を越え帰国した。日本の港に着き船のデッキから小学生がランドセルを背負って歩く姿に胸がいっぱいになったという。
二度の地獄…「戦争は馬鹿らしい」
「特攻隊員」と「シベリア抑留」。鳥谷さんは二度の地獄を生き抜いた。

鳥谷邦武さん:
戦争ってこのくらい馬鹿らしいものはない。『死にたくない』と言いながら亡くなっていった同期生、戦友がたくさんいるから。本当はどんなだったのか、この世に残していきたい
(サガテレビ)