シリーズでお伝えしている「語り継ぐ戦後80年」。
今回はある場所の名前から「平和の意味」を考える。
戦火を逃れた先の過酷なくらしを経て、いま願うこととは。
北海道江別市の“世田谷”
北海道札幌市の隣にある江別市・角山。
ここには東京と同じ名前を持つ『世田谷』という場所がある。
のどかな風景に残るその名は、80年前の夏、戦火を逃れてやって来た人々の物語とともにある。

「拓北農兵隊」として北海道に移住
1945年。空襲の避難先と食料増産のためとして、政府が募った北海道開拓の移住者は1万7000人に上り、「拓北農兵隊」と名付けられた。

137の町村に入植したうち江別には7月9日、東京・世田谷区から33世帯がやってきたのだ。

移住者の語る当時の過酷さ
当時11歳、映画俳優の父を持つ山形トムさん(91)は一家5人で移住してきた。
「毎晩のようにB-29が爆撃していて、うちの親父が東京にいたら生きていけないからって」(山形トムさん)

趣味の絵で当時の情景を伝え続けている山形さん。
戦火から逃れた先でも過酷な環境が待っていたという。
「新聞を信じて(北海道に)来たら全然、家がない。家がなかったら困るから何とかしてほしいと言ったら『原始林で丸太を切って自分たちで建てなさい』と言われた」(山形さん)

これは当時の移住を募る新聞記事だ。
「住宅の用意あり」「移住後の主食品の配給を確保す」
しかし実態はまったく違ったのだ。

93歳の横山民男さん。
13歳で移住して80年、世田谷地区に住み続けている。
「昔はここは全部泥炭だから何も土もない一握りもなかった」
「小豆とか大豆とか実のなる物は全然ダメ」(いずれも横山さん)
与えられた農地は農業には適さない泥炭地だった。
「農家がジャガイモを掘って虫食いがあったものを捨てたのを拾って食べて。何を食べて生きてきたのか思い出せない。よく生きてきたな」(横山さん)

小笠原美那子さん(94)も「拓北農兵隊」の1人。
14歳の時、家族6人で大阪からオホーツクの斜里町に移り住んだ。
「食べるものもないし寒いしストーブもないようなところ」
「近所の人がストーブを持ってきてくれたり」
「北海道の人はみんな温かく親切でした」(いずれも小笠原さん)

つらい記憶とうれしい記憶。
戦後80年、小笠原さんは当時の光景と平和への願いを絵手紙に込めて伝え続けている。

当時の憩いの場「世田谷倶楽部」
作物を育て、牛を飼い、力を合わせて生き抜いた人々。
当時の世田谷地区にも心を通わす場所があった。
「集会所が欲しいというので世田谷のクラブを作った。そこでいろいろ文章を書いたり習字を習ったり」(山形さん)

7月9日、入植から80年の節目。
仲間やその子孫が集まったのは、形を変え、いまに残る「世田谷倶楽部」だ。
年に一度、世田谷で顔を合わせる仲間。
ジンギスカンをつつきながら思いを馳せます。

「生まれは同じ東京だがちょっと違うんですね。私は当時13歳、3つか4つ年上だよな」(横山さん)
「やはり土地が悪いから。機械もない時代にやっていたからすごいと思う」(入植4世 阿部愛希さん)
「このメンバーと会えてやはり懐かしいね。今考えたらよくこんな住んできた、生きてこれた」(山形さん)

戦争を耐えて生まれた絆「ここは第一の故郷」
戦争に翻弄されながらも強く生き抜いた人々。
戦後80年、いま思うことは。
「第二の故郷というかここが『第一の故郷』。戦争なんて余計事だ。やってはだめ。あんなことない方がいいに決まっている」(横山さん)
江別市の「世田谷」。
この土地で生まれた絆が平和の価値を後世に語り継いでいる。
