2022年8月のナンシー・ペロシ米下院議長(当時)の台湾訪問は、台湾海峡の地政学的緊張を一気に高めた歴史的な出来事であった。中国はこれに反発し、台湾周辺で大規模な軍事演習を実施。実弾射撃やミサイル発射を含む演習は、台湾を事実上包囲する形で行われ、国際社会に強い懸念を引き起こした。

さらに、この時期には大韓航空やアシアナ航空など、複数の航空会社が台湾発着の民間便を一時的に運休する事態に至った。この事象は、有事の際、台湾からの安全な退避手段が極めて限られることを浮き彫りにした。
日本企業にとって、台湾における事業継続と駐在員の安全確保は、喫緊の課題である。本稿では、ペロシ訪台から3年が経過した2025年8月時点の台湾情勢を踏まえ、日本企業が検討・実施すべき駐在員の最少化について、背景、必要性、具体策を解説する。
ペロシ訪台とその後の地政学リスクの顕在化
2022年8月のペロシ訪台は、米中間の緊張を一気に高めただけでなく、台湾海峡の地政学リスクを改めて世界に認識させた。

中国はペロシ氏の訪問を「一つの中国」原則への挑戦と捉え、台湾周辺での軍事演習を強化。
演習では、台湾本島を包囲する形で複数のミサイルが発射され、一部は日本の排他的経済水域(EEZ)に着弾した。この事態は、日本にとって台湾問題が単なる地域問題ではなく、国家安全保障に直結する課題であることを明確にした。

ペロシ訪台以降も、台湾海峡の緊張は収まる気配がない。中国は定期的に台湾周辺での軍事演習を実施し、空母や戦闘機の展開を強化。2025年現在、米中間の対立は貿易摩擦や技術覇権争いにとどまらず、軍事的な対峙が常態化している。
米国は台湾への武器供与や軍事協力の強化を進め、日本も「台湾有事は日本有事」との認識のもと、防衛力の強化や日米同盟の深化を進めている。一方、中国は台湾統一を国家目標として掲げ、軍事的圧力を強めることで「レッドライン」を明確に示している。

このような情勢下で、日本企業は台湾における事業展開において、従来の経済的視点に加え、地政学リスクへの対応を迫られている。
特に、2022年のペロシ訪台時に見られた民間航空の運休は、有事の際に台湾からの退避が極めて困難であることを示した。民間航空は、台湾から国外への主要な避難手段であるが、中国による飛行禁止区域の設定や軍事演習の影響で、即座に運休となる可能性が高い。海上ルートも、中国海軍の封鎖や紛争リスクにより現実的ではなく、駐在員やその家族の安全確保が極めて困難になることが予想される。
日本企業が直面するリスクと駐在員の安全確保
日本企業にとって、台湾は重要なビジネス拠点である。半導体産業を始めとするハイテク産業や、製造業、サービス業など、多岐にわたる分野で日本企業は台湾に進出している。特に、TSMC(台湾積体電路製造)のような世界的な半導体メーカーの存在は、日本企業のサプライチェーンにおいて欠かせない要素となっている。しかし、台湾海峡の地政学リスクは、こうした経済的利益を一瞬にして脅かす可能性がある。

有事の際、駐在員とその家族の安全確保は企業の最優先課題となる。しかし、ペロシ訪台時の事例が示すように、民間航空の運休や海上ルートの遮断により、迅速な退避は事実上不可能となるリスクが高い。さらに、台湾現地のインフラが混乱し、通信や交通手段が制限される可能性も考えられる。これにより、駐在員は孤立し、企業は事業継続計画(BCP)の実行に支障をきたすことになる。

また、駐在員の安全確保だけでなく、企業のレピュテーションリスクも無視できない。有事の際に適切な対応が取れなかった場合、企業は従業員やその家族、さらにはステークホルダーからの信頼を失う可能性がある。さらに、台湾での事業が停止した場合、サプライチェーン全体への影響や経済的損失も計り知れない。こうしたリスクを最小化するためには、平時から駐在員の数を最適化し、有事の際の退避計画を策定しておくことが不可欠である。
駐在員の最少化に向けた具体策
日本企業が台湾における駐在員の最少化を進めるためには、以下の具体策を検討・実施する必要がある。
現地人材の活用とリモートワークの推進
駐在員の数を減らすためには、現地人材の積極的な登用が有効である。台湾は高い教育水準と技術力を有する人材が豊富であり、駐在員が担っていた業務の多くを現地スタッフに委譲することが可能である。
現地人材の育成には時間と投資が必要だが、長期的な視点でコスト削減とリスク低減につながる。また、リモートワーク技術の進化により、本社や他の地域から台湾の事業を管理する体制を構築することも有効である。コロナ禍で培われたリモートワークのノウハウを活用し、駐在員の物理的な常駐を最小限に抑える仕組みを導入すべきである。
事業の分散化とサプライチェーンの多角化
台湾に依存する事業やサプライチェーンを見直し、リスクの分散を図ることも重要である。例えば、半導体製造の一部を日本や東南アジア、米国などに移管することで、台湾有事の影響を軽減できる。

TSMC自身も、熊本工場(日本)やアリゾナ工場(米国)など、海外での生産能力拡大を進めている。日本企業はこうした動きに合わせ、台湾以外の拠点での事業展開を強化することで、地政学リスクへの耐性を高めることができる。
有事対応計画(BCP)の策定と訓練
有事の際の退避計画や事業継続計画を策定し、定期的な訓練を実施することが不可欠である。具体的には、駐在員とその家族の安全な退避ルートの確保、緊急時の連絡網の構築、代替拠点での事業継続シナリオの策定などが必要である。
また、台湾現地の法規制やインフラ状況を踏まえた現実的な計画を策定し、従業員への周知徹底を図る。ペロシ訪台時の民間航空運休の事例を教訓に、複数の退避シナリオを準備しておくことが重要である。
地政学リスクのモニタリングと情報共有
台湾海峡の情勢は日々変化しており、企業は最新の地政学情報を収集・分析する体制を構築する必要がある。政府機関やシンクタンク、コンサルティング会社などと連携し、リアルタイムでの情報収集を行う。また、業界団体や他企業との情報共有を通じて、ベストプラクティスを学び、企業間での協力を強化することも有効である。
ビジネスとリスク管理のバランス
駐在員の最少化は、地政学リスクの低減に寄与する一方、ビジネス展開における柔軟性や現地での競争力を損なう可能性もある。台湾は引き続き経済的に魅力的な市場であり、過度な縮小は機会損失につながる。そのため、企業はビジネスチャンスとリスク管理のバランスを慎重に検討する必要がある。例えば、短期的なプロジェクトベースでの駐在や、必要最小限のキーパーソンのみを常駐させるなど、柔軟な運用が求められる。
また、日本政府や国際社会との連携も重要である。日本政府は台湾有事を見据えた邦人保護計画を策定しており、企業はこれに協力する形で退避計画を構築すべきである。さらに、日米同盟やQUAD(日米豪印)などの枠組みを活用し、国際的な支援体制を確保することも有効である。
駐在員の最小化を
ペロシ訪台から3年が経過した2025年現在、台湾海峡の地政学リスクは依然として高い。
日本企業は、ペロシ訪台時に露呈した民間航空の運休リスクや、台湾からの退避の困難さを教訓に、平時から駐在員の最少化を進めるべきである。
現地人材の活用、リモートワークの推進、事業の分散化、BCPの策定など、具体的な対策を通じて、リスク管理とビジネスの両立を図ることが求められる。台湾は経済的魅力を持つ重要な市場であるが、地政学リスクを無視した事業展開は、企業にとって致命的な結果を招きかねない。
戦略的な視点で駐在員の最適化を進め、持続可能な事業継続を実現することが、日本企業にとっての喫緊の課題である。
【執筆:株式会社Strategic Intelligence代表取締役社長CEO 和田大樹】