新たに自民党総裁となった高市早苗氏が、秋の例大祭での靖国神社参拝を見送る方向で調整に入ったというニュースは、外交・安全保障の観点から非常に注目すべき動きである。

これまで高市氏は、閣僚在任中も含め、終戦の日や春・秋の例大祭に参拝を続けてきた経緯があり、その政治信条の核の一つと見られていた。

総裁選では参拝について「適時適切に判断する」
総裁選では参拝について「適時適切に判断する」
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総裁選の際も、首相就任後の参拝について「適時適切に判断する」と述べ、参拝の意向自体を否定してはいなかった。

それにも関わらず、就任直後の重要な局面で参拝を見送るという判断を下した背景には、自身が掲げる「国益」を最大化するための、極めて現実的かつ戦略的な外交・安全保障上の考慮が存在すると分析される。

特に、日韓関係の安定化に向けた韓国・李在明大統領の姿勢変化と、それを強力に後押しする同盟国・米国の存在が、この判断を大きく左右したと言える。

韓国・李在明政権の「実用・現実外交」

高市氏が参拝を見送る最大の外交的背景の一つに、韓国の李在明大統領が就任後、対日姿勢を「実用主義」へと大きく転換させている現状がある。

“反日的”とみられていた李在明大統領だが…
“反日的”とみられていた李在明大統領だが…

李大統領は、野党時代には歴史認識問題などを巡り、日本に対して強硬で反日的な発言を繰り返してきた経緯がある。しかし、2025年6月の就任後は、その姿勢を一変させている。

背景には、北朝鮮の核・ミサイル開発の脅威が現実化し、日米韓の安全保障協力が不可欠になっているという厳しい安全保障環境の現実がある。

また、韓国国内では、経済的な結びつきの重要性の認識や、過激な反日姿勢が国益を損なうことへの懸念が、中道派や若者を中心とする国民の間で高まっているという国内政治上の事情もある。

李在明大統領は良好な日韓関係を築いている
李在明大統領は良好な日韓関係を築いている

李大統領周辺からも、就任直後から対日関係を「大局的」な経済協力を重視する方向で再定義する「K-外交」を提唱するなど、関係改善に向けた明確なシグナルが発せられてきた。

実際、李大統領は石破茂首相との会談で両国関係の安定的な発展を確認しており、日韓関係は近年稀に見る良好なムードにある。

こうした状況下で、高市総裁が靖国神社を参拝した場合、韓国側はこれを「近年良好な日韓関係に対する逆行」と受け止めざるを得なくなる。

韓国の「日韓関係改善による現実的利益」を損なわせたら…
韓国の「日韓関係改善による現実的利益」を損なわせたら…

李政権が関係改善のために払っている政治的コストや国内の強硬派からの批判を無視し、「近年良好である日韓関係を日本側が自ら後退させた」という評価につながりかねない。それは、結果として、韓国側が獲得しつつある「日韓関係改善による現実的利益」を日本側が自ら損なわせるという構図を生み出し、関係は再び冷え込む可能性が生じる。

高市総裁が、自身の政治信条よりも、この「日韓関係改善という現実の国益」を優先したことは明らかだろう。

米国が求める「日米韓協力」の堅持

高市総裁の判断を後押しするもう一つの大きな要因は、同盟国である米国の強い意向である。

米国は、インド太平洋地域における中国や北朝鮮の脅威に対し、日米同盟を基軸としつつ、日韓両国が連携を深める「日米韓の強固な協力体制」を最も重視している。

日米韓の制服組トップが韓国で会談 2025年7月
日米韓の制服組トップが韓国で会談 2025年7月

特に、北朝鮮の核・ミサイル能力の高度化や、台湾海峡を巡る緊張が高まる中、日米韓三カ国の安全保障協力は、地域の抑止力維持に不可欠となっている。

過去、日本の首相による靖国参拝は、日韓関係の悪化を招き、結果として日米韓の協力体制に亀裂を生じさせてきた。

靖国参拝すればアメリカの高市氏への評価が下がることも
靖国参拝すればアメリカの高市氏への評価が下がることも

米国は、日本の首相の靖国参拝に対して失望を表明するなど、そのたびに懸念を示してきた経緯がある。日韓関係が良好な今のタイミングで、高市総裁が参拝に踏み切れば、日韓関係は再び悪化し、米国が最も避けたい「日米韓の連携の瓦解」を招くリスクが高まる。

米国にとっては、高市氏の政治信条よりも、アジア太平洋地域の安定と対中国抑止のための「日米韓協力の維持」の方が遥かに重要である。参拝を強行し、日韓関係を後退させた場合、米国の高市政権に対する評価ははじめから大きく損なわれ、政権の外交基盤そのものが揺らぎかねない。米国の高市政権への不満が確実に高まるだろう。

政治信条と国益の狭間で

高市総裁の靖国神社参拝見送りは、自身の政治信条と、直面する外交・安全保障上の現実的な国益との調整に基づく結果である。

李在明大統領の現実路線、そして、日米韓協力の堅持を求める米国という二つの大きな外圧が、この判断を決定づけた。

政治信条と国益の狭間で…
政治信条と国益の狭間で…

高市氏が総裁選中に述べた「適時適切に判断する」という言葉は、国際情勢や外交日程を考慮し、日本の国益を最大化するためのタイミングを計るという、現実の政治判断の難しさを示していた。

今回の見送りは、高市氏が、強固な政治信条を持ちながらも、外交・安全保障においては、目先のイデオロギーよりも「現実的な国益」と「国際協調」を優先する「実務家路線」を敷くというメッセージを、日韓両国と米国、そして国際社会に発したものと評価できるだろう。

【執筆:株式会社Strategic Intelligence代表取締役社長CEO 和田大樹】

和田大樹
和田大樹

株式会社Strategic Intelligence代表取締役社長CEO/一般社団法人日本カウンターインテリジェンス協会理事/株式会社ノンマドファクトリー 社外顧問/清和大学講師(非常勤)/岐阜女子大学南アジア研究センター特別研究員。
研究分野は、国際政治学、安全保障論、国際テロリズム論、経済安全保障など。大学研究者として安全保障的な視点からの研究・教育に従事する傍ら、実務家として、海外に進出する企業向けに地政学・経済安全保障リスクのコンサルティング業務(情報提供、助言、セミナーなど)に従事。国際テロリズム論を専門にし、アルカイダやイスラム国などのイスラム過激派、白人至上主義者などのテロ研究を行い、テロ研究ではこれまでに内閣情報調査室や防衛省、警察庁などで助言や講演などを行う。所属学会に国際安全保障学会、日本防衛学会、防衛法学会など。
詳しい研究プロフィルはこちら https://researchmap.jp/daiju0415