「8月6日だけの話じゃない」
そう言って、毎月欠かさず広島市の平和公園に通う僧侶がいた。
原爆投下の2カ月後から始まった“月命日の供養”。引き取り手のない約7万人の遺骨に手を合わせ、父の遺志を継いだ僧侶は生涯をかけて祈り続けた。
毎月6日、原爆供養塔を訪れる僧侶
2022年2月6日。平和公園にある原爆供養塔へ向かって、腰の曲がった僧侶が歩いていく。
「おはようございます」
集まった人々に丁寧に声をかけ、いつもの祈りが始まった。
「ああ皆人よ 皆人よ 原爆(アトム)の街を再びと 世界の何処にも出だすなよ」

お経をあげるのは呉市の白蓮寺・吉川信晴(きっかわ しんじょう)住職、当時85歳。「ヒロシマの月命日」にあたる毎月6日に供養を行っている。
この日の参加者は8人。小雪が舞う冷たい空気の中で、ひっそりと祈りが捧げられた。
身元不明のまま焼かれた無数の死体
供養会を立ち上げたのは、吉川住職の父・元晴さん。
「親類が広島にいたので、どうなっているのかと確認しに行ったんです」
被爆直後の広島は、言語に絶する地獄絵図だったという。
「至る所に死体があり、一家全滅もあった。これは放っておけない。気がついた者が供養するしかないというのが発端だったと思います」
原爆投下から間もない1945年10月6日から、月供養は始まった。

原爆供養塔が建立された付近は、身元のわからない無数の死体が火葬された場所だ。父・元晴さんらは、翌1946年に広島市戦災死没者供養会を設立。火葬された遺骨の収集にも取り組んだ。

現在、原爆供養塔の納骨室には原爆で犠牲となった約7万人の遺骨が安置されている。名前がわかっていても引き取り手のいない遺骨が812柱。身元不明の遺骨は、遺体が収集された方面ごとに木箱に納められている。
急死した父の思いを継いで60年
父・元晴さんは、原爆犠牲者の供養を行うとともに平和の尊さを多くの人に訴えていた。

白蓮寺が独自に配布していた当時の印刷物がある。大事に保管された「原爆と世界平和」という読み物の切り抜き。そこに綴られているのは、いつも月供養で唱えている文言だ。
「戦後間もなくの時期に表したものですから、いかに平和が尊いもので、平和であらねばならないかを痛烈に感じていたと思います」

吉川住職が初めて月供養を行ったのは1957年。まだ大学生だった。急死した父の思いを継ぎ、大学を卒業してから約60年、毎月欠かさず原爆供養塔に通っている。
「寺の跡を継ぐことで大きな縁に催された。父親が起こしたものを、生きている間は当然行うという意思はありました」
受け継いだ当初は、親族が原爆の犠牲になった人たちも集まっていた。多いときには30人ほどが参加。長い年月の間には、たった一人で犠牲者を弔うこともあった。
「8月6日だけの話じゃない」
吉川住職は毎月6日の早朝、バスで約1時間半かけて呉市の自宅から広島市内へ向かう。
2023年8月6日。吉川住職はいつも通り平和公園を訪れた。平和記念式典が開かれるこの日は特別に人が多い。原爆供養塔でも毎年さまざまな宗教・宗派の供養慰霊祭が行われる。

長年、住職と親交のある渡部和子さん。1999年から毎朝、ボランティアで原爆供養塔の清掃を続け、月供養にも毎回参加している。法要が終わると、リュックを背負う住職を手伝いながら声をかけた。
「奥様は大丈夫ですか?」
「大丈夫というほどじゃないが、命があれば大丈夫」
自宅では要介護5の妻が待っている。吉川住職は来た道を再び歩きだした。

「本当は8月6日だけの話じゃないんです。ウクライナの今の惨状と、戦後復興を遂げた広島を比べるとき、物事は人間の心次第だなと強く思います。なんのために生きているのか。まさか我心・我欲のために生きているわけではないでしょう」
そう語る住職の顔を強い日差しが照らしていた。穏やかな表情の中にも時折、厳しさがあった。
“欲”が戦争を生む…今ある命を大切に
季節が一巡し、2024年9月6日。月供養の際にこんな話が出た。

「少しばかり私事になりますが、階段を下りる途中に急に意識を失いました。頭を嫌というほど打ったんです。そんなことがあったもので、この場へ何度も参りましたが今日は何か特別のような感じもしまして…」
何百回と訪れた場所。この日も笑顔であいさつをして去っていく。
「ほいじゃあ、失礼します」
これが吉川住職による最後の月供養となった。
10月6日、平和公園の原爆供養塔の前に住職の姿はない。海外に赴任中の長男・信顕さんが初めて参加した。

「父が9月19日に亡くなりました。毎朝6時にお寺の鐘を鳴らしていて、近所の方からするとそれが父の生存確認でした。9月20日、鐘が鳴らないということで近所の方が心配されて…」
享年87歳。自宅で一人、倒れたまま亡くなっていた。
「毎月6日は父の布教活動の中でもすごく心血を注いでいました。父の生前の活動を垣間見られ、今日は本当に来てよかったと思います」
吉川住職は父親の遺志を継いで60年間、雨の時も風が吹き荒れる時も原爆供養塔に通い続けた。世界が平和になるための“人の心の在り方”を説き続けた生涯だった。
生前、多くの言葉を残している。
「“我心・我欲”、それが戦争の元になるんです」
「核兵器はもちろん、大砲や機関銃だってだめ。だめな一番の根源は戦争そのもの」
「ないものねだりではなく、“あるもの生かし”。今あるものは命です。命より大事なものはない」
参る人が「祈りの歴史」をつなぐ
翌月の供養は2人だけで行われた。代わりにお経をあげた平原敦志さんが目元を拭う。
「だめじゃ。わしは泣けてくる」

それでも月供養を続けていく。ともに参加した渡部さんは言う。
「毎月じゃなくていい。いろんなお寺に来ていただいて、6日の月供養をお願いしている最中です」
そして2025年1月6日、吉川住職の思いを受け継ぐ人が現れた。渡部さんの呼びかけに応じたのは、平和公園に近い西應寺の副住職・平慈敬さん。
「こんな素晴らしい活動をしておられたことを、恥ずかしながら知らずに今日まできました。ここで法要を続けた偉いお坊さんがいた──それで終わってしまっては意味がないと思います。そのことを毎月6日、考える機会にしていきたい」

広島で被爆2カ月後に始まった原爆犠牲者の月供養は、今も続いている。
吉川住職はこうも語っていた。
「私が参ることの意味より、“参られる人がある”ことに意味がある。この場所にも歴史があります。やがて、皆さん方もその歴史の一部になります」
被爆80年、平和を願うもう一つの歴史が受け継がれてゆく。
(テレビ新広島)
▷月供養は毎月6日午前9時ごろから行われ、誰でも参加できます。