2025年は「戦後80年」を迎える年。UMKテレビ宮崎は「過去を知る・未来に伝える」をテーマに戦争についての企画を放送している。幼少期に宮崎市で空襲を経験した男性は「戦争は2度と繰り返してはならない」と強く訴える。
戦争経験者が伝えたい思い

宮崎市戦没者遺族連合会 関谷忠会長:
戦争は家族まで巻き込んで、苦しくなる。悲しくなる。父さえ生きていれば、母もこんなに苦労しないで良かったのにな、と思う。今考えると母の子で良かった。
こう話すのは、宮崎市に住む関谷忠さん83歳。1945年3月18日、宮崎県は初めてアメリカ軍の空襲を受けた。

陸海軍の基地を中心に空襲は続き、4月26日、関谷さんの住んでいた佐土原町も、近くに新田原飛行場があったことから、爆弾が落とされた。
宮崎市戦没者遺族連合会 関谷忠会長:
床下に穴を掘って、いわゆる防空壕。そこに逃げ込んでいた。新田原基地も近く、線路をめがけて爆弾が落とされた。爆弾がバーンと落ちている音が頭に残っている。怖くておびえて、自宅に落ちるんじゃないかとびくびくしていた。

関谷さんの父・明さんは1944年8月、関谷さんが2歳の時にフィリピンのマニラに出征し、そのまま帰らぬ人となった。

宮崎市戦没者遺族連合会 関谷忠会長:
召集令状、死亡告知、白木箱の返還通知、この3つの紙で父の一生は終わった。白木箱が役場から届けられた。これを見たとたんに外に投げ捨てようと思った。「こんなものはいらない、父を返せ」ということで、母と一緒に叫んだ。
一家の大黒柱である父を失った関谷さん。終戦の翌年には戦没者遺族への恩給が打ち切られた。
母の仕事も見つからない中、生活は困窮したと話す。
宮崎市戦没者遺族連合会 関谷忠会長:
母子心中、親子心中というのもだいぶ耳に入った。今の生活は恵まれている。
戦争体験者の証言を冊子に

関谷さんは農協を退職後、20年以上にわたり戦争を語り継ぐ活動を行っていて、現在は宮崎市戦没者遺族連合会の会長を務めている。
連合会は6月、戦後80年の節目として戦争体験者や遺族の証言を1つの冊子にまとめた。

米軍機に狙われたことがあります。軒先に立っていたところを狙われて、機銃掃射を受けました
敗戦後シンガポールで武装解除され、レンパン島で一年抑留生活を送りましたが、そこでは深刻な飢餓体験をしました
冊子『戦争の記憶を次世代に』には、関谷さんを含めた19人が空襲や出征など自身や家族の戦争体験を掲載。500部が発行され、県立図書館などに寄贈される。

宮崎市戦没者遺族連合会 関谷忠会長:
戦争が終わってちょうど80年。戦争の事がほとんど忘れられているというのが今の現状。読んでいただいて『戦争は2度と起こしてはならない』という意識を持っていただければありがたい。選挙が今度ありますけど、若い人たちは戦争を知らない。物価高とかいろいろあるが、戦争のことも話題に出して行かないといけない。
高齢化で「語り部」が減少する中、戦争の記憶を風化させない取り組みが重要だ。
取材協力:南九州文化研究会 稲田哲也氏
(テレビ宮崎)