太平洋戦争末期、現在の鹿児島県南さつま市にあった特攻基地から多くの若者が出撃し、命を落とした。当時撮影された特攻兵の写真の中に、それまで存在すら知らなかった伯父の姿を発見、それをきっかけに、語り部として活動している女性が、南さつま市を訪れた。伯父の命日に特攻兵たちの霊に手を合わせ、子どもたちに戦争の悲惨さを語り継いだ。
写真の特攻兵が父にそっくり 戦死した伯父の存在を知る
南さつま市を訪れたのは、髙徳えりこさん(58)。戦争の語り部として、神奈川県の学校を中心に平和授業を行っている。

髙徳さんが語り部となったきっかけは、特攻隊員を写した2枚の写真と出会ったことだった。「新聞の書籍の広告欄に、父にそっくりの顔写真が見えたんです」。それは、抱き上げた子犬に優しい視線を送る、若き特攻隊員を撮ったものだった。

そこに写る穏やかな目をした若者が、父親に似ているのに気づいた。「驚いて母親に見せたんですね。そしたら、父には戦争で亡くなった兄がいたことを教えてくれたんです」。
陸軍パイロット、高橋峯好伍長。髙徳さんの父の兄で、太平洋戦争で戦死した。17歳という若さだった。髙徳さんはこの時初めて、高橋峯好さんという伯父の存在を知った。髙徳さんは「『身内だ』と、一目ですぐわかるぐらい。当時、17歳だった私の息子にもとてもよく似ていて」と、写真で伯父と出会った時の驚きを話してくれた。
「子犬を中心に微笑む5人の少年特攻兵の写真」で、再び亡き伯父と再会
さらに数カ月後、髙徳さんは別の本で、再び亡き伯父と巡り合う。その本は「ユキは17才、特攻で死んだ」。表紙には、「子犬を中心に微笑む5人の少年特攻兵の写真」が使われていた。

楽しそうに笑う5人の少年を撮ったモノクロの写真は、前列に3人、後列に2人。和やかな雰囲気でカメラに収まっている。後列の右側で、少しおどけているようにも見える少年兵が、髙徳さんの伯父の高橋伍長だ。
この、「子犬を中心に微笑む5人の少年特攻兵の写真」は、太平洋戦争末期、現在の鹿児島県南さつま市の万世で撮影された。5人は全員、飛行服を着てパイロット用のゴーグルを頭に着けている。年齢は、17歳から19歳。
仲睦まじそうに身を寄せ合う彼らの明るい表情だけを見れば、若者らしい希望にあふれた笑顔のように見える。しかし、5人は特攻隊員。80年前の昭和20年5月27日、南さつま市にあった陸軍の万世飛行場から沖縄に向けて出撃し、全員戦死した。
「特攻の事実を次の世代の人々に伝えたい」戦争の語り部に
これをきっかけに、「それまでは戦争は人ごとだし、自分に関係ないと思っていた」髙徳さんが、「特攻の事実を次の世代の人々に伝えたい」という強い思いに突き動かされることになる。
「誰が聞いてくれるという何の当てもなかったんですけど、『とにかく平和学習の教材を作ろう』って」。戦争について勉強を重ねた髙徳さん、8年前から、教員時代の知り合いを通じて、語り部としての平和学習をスタートさせた。
そして今回、伯父が最後に飛び立った南さつま市で、「語り継ぐ戦争」~今こそ伝えたいこと~という演題で平和学習を行った。
歴史は今につながっている 戦争の背景を知るのは平和学習の大前提
「お願いします!」
髙徳さんの話に耳を傾けるのは、小中一貫校の南さつま市立坊津学園5年生から9年生の約60人。髙徳さんは「これから皆さんと、戦争について一緒に学んでいきたい」とあいさつした後、「日本が戦争した国は?」といったクイズなどをスクリーンに映し、子どもたちに太平洋戦争が始まるまでの国際情勢を説明した。髙徳さん自身、「平和学習の大前提として、戦争が起こった背景を知ることが大切」と考えているからだ。

「歴史は今につながっています。きょうの話も、ただ歴史の知識として知っただけでなく、皆さんが平和を考える小さなきっかけになってくれたらうれしい」と、伯父譲りの柔和な笑顔で子どもたちに語りかけた。
「特攻」のことを知っていますか?
「人生最後の日をむかえました」
会場のスクリーンに、こんな書き出しで始まる遺書が映し出された。特攻隊員が両親に宛てて書いたものだ。いよいよ決戦場に出発すること、出撃前に刈った“遺髪”を送ることが記され、結びに「くれぐれもご御身体を大切に」とある。
髙徳さんが語り始めた。
「特攻は、爆弾を抱えた戦闘機もろとも、パイロットを敵艦船に体当たりさせる作戦でした。」髙徳さんは、腕に爆弾を抱え、その爆弾を放るようなしぐさを交え特攻作戦について説明した。


そして、「峯好おじさんが戦争で亡くなってしまったことが悔しいし、すごく悲しいです」と、若くして特攻作戦に散った隊員の死を悔やみ、「二度と起こってほしくないという気持ちで、次世代の皆さんに話を続けています」と、丁寧な語り口で子どもたちに思いを伝えた。
17歳で戦死に「若いですね」「こういう話を聞けて良かった」
講演の後、髙徳さんの周りに生徒たちが集まった。
一人の男子生徒が、高橋伍長の死を、弟である髙徳さんの父がどう感じていたのか聞きたかったようだ。「私の父は幼かったので」と髙徳さんが答えると、男子生徒は「お兄さんである高橋伍長が、特攻で戦死したことを認識していなかった」と、当時の状況に想像を巡らせていた。そして、すかさず「高橋伍長は17歳?」と尋ね、「17歳ですね」と髙徳さんが答えると、「若いですね」とつぶやいた。戦死した高橋伍長の年齢が、自分とあまり変わらないことが衝撃だったのだろうか、男子生徒は、天井を仰いだ。

別な女子生徒は「こういう話を聞けてとてもうれしかったです」と何度も髙徳さんに頭を下げた。
髙徳さんは「今の子どもたちに『知ってほしい』というメッセージを伝えることしかできないので、子どもたちがそれぞれ感じてくれたらいいな、と。もし行動に移してくれる子がいたら、さらに喜びです」と、会場を後にした。
「崩れ落ちるような泣き叫びたい気持ちを一生懸命抑え」明るい笑顔で撮影
髙徳さんの鹿児島訪問2日目の、5月27日。1945年、髙徳さんの伯父らが万世飛行場から出撃し、戦死した日だ。髙徳さんは南さつま市の万世特攻平和祈念館を訪れ、慰霊碑の前で静かに手を合わせ戦没者の霊を慰めた。

平和祈念館管理員の小屋敷茂さんが「子犬を抱いている第72振武隊の撮影場所は、だいたいあの辺になるんです」と、祈念館の外にある松林へと案内した。そして、「ここにあった大きな松の木とか、後ろにあった兵舎などから、撮影場所はこの辺だろう」と教えてくれた。
あの日、松林で撮影されたと推測される写真に収まった若者たち。5人全員が笑っている。

髙徳さんは「自分の弱さを出してしまったら、きっと崩れ落ちるような、泣き叫びたい気持ちだったと思うんですよ。一生懸命、恐怖を抑えていたのかな。明るく振る舞っていたのかなって思います」と、若き特攻隊員たちの思いをおもんぱかった。
「こういう人たちがいた」だから、「絶対繰り返してはいけない」
「子犬を中心に微笑む5人の少年特攻兵」の写真パネルが、万世特攻平和祈念館に展示されている。髙徳さんは、自分の体よりもずっと大きなパネルを見上げ、「こういう時代だから仕方なかった、とは思ってほしくない。」と、切り出した。

そして、「『こういう人たちがいた、でもこれからは絶対繰り返してはいけない』と思ってほしい。」と、願いを込めるように静かに語った。
髙徳さんは、伯父と仲間たちの戦後80年の命日に、彼らが最後に飛び立った地で80年前の出来事と向き合った。
「おばあちゃんになっても、声が出る限り語り部を続けたい。伯父さんやみんなのことを伝え続けたいと思っています」と、写真の中の特攻兵一人一人の顔を見ながら語る髙徳さん。目には、熱意と共に悲しみが宿っていた。
(鹿児島テレビ)