戦時中、鹿児島・鹿屋に特攻隊員として配属された経験を持つ茶道裏千家の前家元・千玄室さんが、戦後80年の終戦の日を前に、102歳の生涯を閉じた。千さんは生前、慰霊のため鹿屋を何度も訪れていて、平和への思いを熱く語っていた。

「私だけ出撃が取り消されて悔しくて」行き場のない思いをずっと抱え

「なぜあの時に私は出撃命令が取り消されて…。それがもう悔しくて悔しくて。ここまで生きてきて、なおそれがこびりついているんですね」。

2015年、当時92歳の千さんは鹿児島テレビのインタビューにこう語った。当時戦後70年たってなお、元特攻隊員の一人として行き場のない思いをずっと抱えて生きてきたことを感じさせた。

千玄室さん(当時92歳)
千玄室さん(当時92歳)
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特攻隊員として鹿屋に。「殴られて血だらけ」の地獄のような日々

千利休から数えて15代目となる千玄室さんは1923年4月、京都生まれ。戦時中、特攻隊員として現在の鹿屋市にあった海軍の串良航空基地に配属された。訓練中は地獄のような日々を過ごして多くの仲間を失い、戦没者の慰霊のために戦後何度も鹿屋を訪れた。

普段穏やかな表情の千さんだが、2015年のインタビューでは、戦時中のつらい経験を険しいまなざしで語った。

「『あなた方にはもう10カ間しか教える期間がない』と。『だから10カ月間で全部飛行機の技術を覚えろ』と。そ~んなむちゃくちゃな!」千さんは両手を上下に大きく振って、軍の無謀な指示への怒りを表現して見せた。そして、「バーン」と体がのけぞるほど強く、自身の顔を殴るまねをし「殴られて血だらけになりながら操縦かん握って。みんなね」。千さんは両手で、口から血をダラダラと流す特攻隊員たちの姿を悲痛の表情を浮かべて再現した。

戦時中の体験を語る千さん(2015年)
戦時中の体験を語る千さん(2015年)

『千よ、お茶にしてくれや』飛行服で茶席『ああ、うまいなあ』

「飛行機の作業で降りてきたら『千よ、なあ、おい。お茶にしてくれや』飛行服のままであぐらかいて、みんなお茶を」。

資料館を併設する裏千家の施設に、千さんが仲間のために野だての席を準備したとみられる写真が所蔵されている。その写真では、草地に2枚のござが敷いてあり、右側のござの前には支柱が立っていて、茶釜の代わりにやかんが吊り下げられている。奥には、飛行服にゴーグル姿で正座している千さんらしき人物が、両手をついて礼をしている。同じように飛行服を着た隊員3人は足を崩して座り、千さんに合わせるように頭を下げている。雰囲気は紛れもなく客人をもてなす茶席だ。

千さんは、お茶を飲み干すようなしぐさをして当時を振り返った。「『ああ、うまいなあ~』。もう殴られたこともみんな忘れて。その一盌(わん)のお茶で」。

右奥が千さん(提供・裏千家今日庵)
右奥が千さん(提供・裏千家今日庵)

「一盌(いちわん)からピースフルネスを」戦友の思いを胸に平和を訴え続ける

だが、このあと千さんは、声をつまらせ、こう続けた。「『ああ、生きたいなあ、生きたいなあ』って」。千さんには出撃前に転属命令が出され、そのまま終戦を迎えたが、多くの仲間が帰らぬ人となった。

戦時中の千さん(提供・裏千家今日庵)
戦時中の千さん(提供・裏千家今日庵)

“もっと生きたい”

当時は遺書に書くことができなかったが、これが、若き特攻隊員たちの本音だ。戦後の千さんは、戦友の思いを胸に「一盌(いちわん)からピースフルネスを」との合い言葉を掲げ、世界中で平和を訴え続けてきた。

今回も森丘哲四郎少尉の遺品の茶碗で献茶「きっとこれが最後」

千さんは、鹿屋に来ると決まってお茶をたてる茶わんがある。地の色がベージュ、胴の部分がつぼのように膨らんだ個性的な形のその茶わんは、戦友の森丘哲四郎少尉の遺品だ。

戦友・森丘哲四郎少尉の遺品でお茶をたてる
戦友・森丘哲四郎少尉の遺品でお茶をたてる

亡くなる前年、2024年10月に鹿屋市で行われた慰霊祭でも、いつもと変わらずこの茶わんでお茶をたて、戦没者の霊にささげた。この時、千さんは周囲に「きっとこれが最後だ」と漏らしていたという。

鹿屋訪問は「きっとこれが最後だ」と周囲に伝えていた
鹿屋訪問は「きっとこれが最後だ」と周囲に伝えていた

『鹿屋市のためなら』涙を流しながら目いっぱい語った最後の訪問

言葉通り最後となったこの訪問で、千さんは『鹿屋市のためだったら』と市の取材に応じ、戦時中の鹿屋について証言を残した。撮影を担当した鹿屋市ふるさとPR課の櫛間崇史さんは「取材そのものに1年くらい調整をかけて。本当にご縁だと思っている。短い時間だったが、60分という限られた時間を目いっぱい、たくさんのエピソードを話してくれたことが特に印象に残っている」と感慨深そうに振り返った。

鹿屋市の取材に応じた千さん(2024年10月)
鹿屋市の取材に応じた千さん(2024年10月)

その時の映像は2025年に鹿屋市で開かれた戦後80年特別展で公開された。身振り手振りを交え熱く語りながら、両手で顔を覆ってあふれる涙を拭う千さんの姿が、そこにあった。

平和のために私たちができること「まず、祈ってあげてください」

千玄室さんは80回目の終戦の日の前日、8月14日に呼吸不全で亡くなった。102歳だった。

特別展の会場に幼い子どもを連れて来ていた男性は「すごく悲しい。鹿屋のこともだし、すごく日本の平和を願ってずっと活動されていた方なので、残念だなという気持ちです」。と千さんをしのんだ。

生前のインタビュー、記者が「平和のために、私たちができることは何ですか?」と尋ねると千さんは手を合わせ、慈愛に満ちた表情で「祈ってあげてください、まず。本当に心から祈ってあげてください。祈ってあげて。そういう気持ちを持っていただく人が増えれば増えるほど、ずっとその手のつながりが、温かい手のぬくもりが世界に通じていきますよ」と、唱えるように語った。

平和について語る千さん(2011年4月)
平和について語る千さん(2011年4月)

「偉大な方だなあと思っています、思いを引き継いでいけたらなと思います」。特別展に訪れた子ども連れの男性がこう話してくれた。

千さんの平和を願う思いは、これからも人々の心に響いていく。

(動画で見る:さようなら 千玄室さんが鹿屋で残した言葉 茶道裏千家の前家元は元特攻隊員

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