外装は鉄骨鉄筋コンクリート造に石を貼る仕上げだが、銀座の一等地の商業ビルなので、少し色味が欲しい。そこで、赤みをおびた岡山県の万成石(まんなりいし)に目を付けたが、産出量が少ないため、一、二階の外回りだけ岡山万成石の本磨き、三階以上は朝鮮御影石の小叩きとした。
一階は人が触れる場所のため、特に入念に磨き上げ、2センチの厚さまで削り落とした。
象徴的な時計塔の位置に苦心
渡辺が苦心したのは四面に文字盤を入れた時計塔の位置だった。南向きで思い切り前に据えた。
渡辺の設計した意匠は、様式建築ながらモダンなスタイルであったため、決して飽きられることなく、銀座のシンボルとして親しまれてきた。
服部は昭和7年にこの店が完成したのを確かめると、安心したのか、2年後73歳で没した。昭和22年には服部時計店の小売部門が「和光」として独立、進駐軍の接収が解除された27年ここで高級宝飾品を主とする営業を開始した。

渡辺は和光の他、横浜のホテルニューグランド、東京国立博物館本館、丸の内の第一生命館、原美術館など、重要な建築を数多く手がけ、どれも息の長い堅実な建築として評価されている。
いずれも、時代の要求に沿って巧みに設計されているため、建築界ではしばしば、時代に迎合した建築として非難されてきたが、渡辺は、決して言い訳や、自己主張をすることなく、求められるものを素直に設計してきたのだった。
特に話題になったのが、東京国立博物館本館のコンペ。渡辺が規定に沿って出した案が最優秀となって実現したのに対し、規定を無視してル・コルビュジエのような案を出した前川國男が落選後建築雑誌に大々的に紹介されて話題をさらった。
渡辺は、戦前これほどの活躍をしたが、戦後は目ぼしい活動が見られず、昭和48(1973)年86歳で静かに息を引き取った。

小川格
ブログ「近代建築の楽しみ」で新たな価値を発信。編集事務所「南風舎」顧問。著書に『日本の近代建築ベスト50』(新潮新書)
(写真は著者撮影)