東京駅は、昭和20年の東京大空襲の爆撃を受けて上階を焼失。二階建てのまま仮の屋根をかけて駅舎として使われていたが、周辺の高層化の影響を受けて、超高層ビルに建て替える構想が発表され、危機を迎えた。

平成に大工事の末、復元と保存

しかし、多くの市民の声に押されて、平成11(1999)年、建設時の姿に復元の上、保存が決定して、免震化を含む大工事の末、ほぼ竣工当時の姿に戻った。

設計したのは、辰野金吾。工部大学校造家学科(現・東京大学工学部建築学科)の第一回の学生四人の中の一人、イギリスから招かれたお雇い外国人建築家ジョサイア・コンドルの最初の教え子である。

肥前唐津藩の下級武士の貧しい家の生まれながら、幸運にも東京に出て、出来たばかりの工部省工学寮に入学。

秀才ではなかったが、強い意思と努力によって頭角を現し、最優秀で卒業すると、ロンドンへの3年間の留学と設計事務所での実務経験を経て、日本最初の建築家として帰国、工部大学校の主任教授となった。

南北の出入口ホールはドームに覆われているが、建設当初のデザインに復元され、鷲が飛び交うなど賑やかなデザインになっている(『至高の近代建築』より)
南北の出入口ホールはドームに覆われているが、建設当初のデザインに復元され、鷲が飛び交うなど賑やかなデザインになっている(『至高の近代建築』より)

しかし、辰野が目指したのは、教育者ではなく、自立した建築家という職業を日本に確立することであった。

このため、辰野は工部大学校の教授の職を19年目に投げ出し、設計事務所の開設を目指した。9歳若い葛西萬司を相棒として、辰野葛西建築事務所を設立したが、仕事には恵まれなかった。