学生といっても、彼らは、コンドルより1歳か2歳ほど若いだけの青年たちだった。コンドルはなんの知識もない彼らに建築のイロハから、つまり、西洋建築の歴史、デザイン、設計、構造、設備、施工技術など建築のすべてを、実務に即して、ていねいに教えた。

彼らは、2年間で、コンドルから多くのことを学んで卒業するとそのまま実務についた。
辰野金吾は、最優秀の卒業生としてロンドンに留学した後に工部大学校の教授に就任し、さらに建築事務所を開設して近代建築の最初の指導者になってゆく。
曾禰達蔵は三菱に雇用され、丸の内のオフィス街の建設に携わる。
こうして、日本人の建築家による近代建築が歩き始めるのだが、片山東熊の歩いた道はかなり特殊なものだった。
コンドルにつき見聞広める
卒業して最初に与えられた仕事が、有栖川宮邸の建築掛だった。これはコンドルが設計した当時最高級の邸宅だったが、コンドルの助手として勤め、現場でさまざまな仕事をこなしながら実務を習得した。
さらにシャンデリア、壁紙、絨毯、家具などを調達するために渡欧、各国の宮殿建築をはじめ、建築を詳細に見学する機会を得た。

その後も数々の邸宅建築を手がけ、宮内省の建築を受け持つ内匠寮(たくみりょう)の技師となって、宮廷建築、博物館などの設計を手がけてゆく。京都、奈良の帝国博物館など多くの作品がある。