昭和後期のプロ野球に偉大な足跡を残した偉大な選手たちの功績、伝説をアナウンサー界のレジェンド・德光和夫が引き出す『プロ野球レジェン堂』。記憶に残る名勝負や“知られざる裏話”、ライバル関係とON(王氏・長嶋氏)との関係など、昭和時代に「最強のスポーツコンテンツ」だった“あの頃のプロ野球”、令和の今だからこそレジェンドたちに迫る!
今回のゲストはその王貞治氏。13年連続を含む15回の本塁打王に輝いたのをはじめ打点王13回、首位打者5回、MVP9回など数々のタイトルを獲得。長嶋茂雄氏とともに“ON砲”を形成し巨人V9に貢献。“一本足打法”でホームランを量産し世界記録となる通算868本塁打の金字塔を打ち立てた“世界のホームラン王”に徳光和夫が切り込んだ。
【中編からの続き】
日本中が待った“世界記録”756号
1975年は成績を落とした王氏だったが76年には復調。ホームラン(49本)と打点(123点)の二冠に輝いた。そして、1977年8月31日の大洋(現・DeNA)戦で、王氏はハンク・アーロン氏が持つメジャーリーグ記録に並ぶ755号本塁打を放つ。その3試合後、9月3日のヤクルト戦でついにメジャーリーグ記録を抜く“世界記録”756号を達成した。
徳光:
このときは本当に日本中が大騒ぎでしたね。王さんの家の周りも大変だったんじゃないですか。
王:
とにかく大変でしたね。夏休みだったんで子供たちが来てて。昔の家で出入口が玄関しかなくて逃げられるわけがないんで、結局、ダーッっている子供たち全員に丁寧にサインしないと出してもらえないんですよ。その周りにはカメラの人たちも来たりなんかしててね。だから、毎日1時間ちょっとかかりましたかね。
徳光:
それは大変でしたね。
王:
でも、僕の野球人生の中で、そこが一番ピークだったと思いますね。
徳光:
そうですか。756号を打ったときはどんな気持ちになりましたか。

王:
本当のことを言うと、ほんとに「やれやれ」ですよ。
徳光:
あの日常から解放された。
王:
そうそう。やれやれですね。毎日、グラウンドに行ってもカメラに囲まれて、「今日、打つか」なんとかってね。自分なりには早く打ちたいと思うんですけど、なかなか打てない。うれしいとかよりも、本音はやれやれですよね。
HRより気分がいい!? 2塁で走者を刺す
徳光:
ちょっと視点を変えて、王さん、守備には自信あったでしょう。
王:
はい、私は守備は好きでした。

徳光:
ですよね。ダイヤモンドグラブ賞だって9年連続ですもんね。
王:
刺すのが楽しみでね。例えば、ランナーが1塁に出ますよね。バントシフトをしますよね。そうしたら、もうとにかくセカンドで刺すっていうのが趣味でしたね。
徳光:
それが快感でしたか。
王:
これはね、ホームランよりもいい気分のときがありましたね。
徳光:
そうですか(笑)。セカンドでのフォースアウトが。
王:
ほかの人だったら多分セカンドに放らないだろう、バント成功というようなボールにあえて行ってビュッとやって決めたらね。それはやっぱり、「よし、やった。ざまあみろ」みたいなところがあったので。
徳光:
送球も早かったですよね。
王:
ええ、ピッチャー出身だったおかげもあったと思いますが、私の球は捕りやすかったはずですよ。長嶋さんの球も捕りやすかったですけどね。
徳光:
そうですか。
王:
ええ。カーンというような強い当たりの打球のときは緩い球が来るんですよ。逆にダイビングして捕ったあと起き上がったときには、ビュッと来るんですよね。
徳光:
いい球が。

王:
状況によっての投げ分けは長嶋さん、大したものでしたね。
徳光:
それに引き換え、(ショートの)黒江(透修)さんはだいぶ…(笑)。
王:
彼は指が短いのかどうか知らないけど送球が曲がるんですよ。球が来たと思って右足を出したら、さらにその右側にボールが曲がってくるんで、うまくいかないんですよ。だから、彼のときだけは足を出すのを最後の最後まで待ってました。まあ、そんなことを言うと怒られますけど(笑)。
徳光:
(笑)。堀内さんが言ってたんですよ。「黒江さんのあのボールを王さんはよく全部すくってた」って。
王:
いやほんとね、変化球ですよ。
「868号」最後のホームランのバット

ここで、徳光和夫がスタジオに持参した宝物を桐の箱から取り出した。王氏は現役通算868本のホームランを打ったが、その最後のホームランのバットだという。この貴重なバットを実は徳光和夫が持っているのだ。
徳光:
ほんと信じられないかもしれませんけど、これが王さんが868本目のホームランを打ったバットです。「868」って書いてあるんですけど、王さんはどなたにでも868本って書いてらっしゃるのかなと思ったら、そうではないんですよね。
王:
確かに本物です。ちゃんと使ってたバットだから松ヤニの色が付いてる。使ってないのはもっと白いですから。
徳光:
懐かしいですか。

王:
懐かしいです。今、持ったら重いですよ。こんな重いバットをよく使ったなと思いますね。
徳光:
このバットで何本か打ってらっしゃるんですよね。
王:
打ってます。
徳光:
引退の年、1980年の4月に、「今年、ホームランを打ったバットをいただけませんか」っていうお約束をしてたら、シーズンが終わってから、これが届いたんですよね。結果的にはこのバットが最後のホームランを打ったバットだった。
王:
それが最後ですから。
徳光:
そういう経緯で僕の手に入ったんですけど、これ、ヤフーオークションに出したら1億円(笑)。
王:
徳光さんに、こうやって大事にしていただいて、バットも本望だと思いますね。



このバットには「徳光和夫様へ 王貞治 868」と書かれている。
徳光:
「開運!なんでも鑑定団」の人が言ってましたけどね、「鑑定団」に出した俺も下世話だなと思うんですけど、この「徳光和夫様へ」って書いてあるのが、非常に貴重なんだそうです。
これは王さんのご了解の下に、野球殿堂博物館へ寄贈するのがよろしいんじゃないかっていうことで…。
王:
それはありがとうございます。
徳光:
今年中に野球殿堂博物館に寄贈させていただこうと思っています。
王:
ファンの人も喜んでくれると思います。
徳光:
オークションにかけるようなことはいたしません(笑)。
30本塁打での現役引退

1980年のシーズンで王氏は現役生活に別れを告げる。この年も30本塁打、84打点の成績を残していた。
徳光:
王さん、辞めようと思ったのはなぜなんですか。
王:
結局、ホームランの数字を見ても、39、33、30って年々下がってきてたんですよね。
徳光:
でも、今、これだけ打ったらホームラン王ですよね。
王:
ええ。でも、打率も下がってきてましたから。
徳光:
王さんの中では満足できる数字じゃないわけですか。
王:
はい。それに78年、79年、80年とチームが優勝してないんですよ。だから、4番バッターとしてはチームが勝てないことに責任を感じるっていう…。
徳光:
それも一面にあったわけですか。
王:
それは、やっぱりそうですね。
3年数字が落ちてて1981年もそんなに盛り返せそうにない、自分としてはそういう思いになっちゃったんですね。でも今考えたら、あと3年くらいやっておけばよかったと思います。
徳光:
ですよね。
“万年Bクラス”ホークスの監督に
現役引退後、王氏は巨人の助監督を3年、監督を5年務め、1987年にはリーグ優勝に導いた。1988年からは少年野球の推進に尽力しながら野球解説などをしていたが、1994年10月に福岡ダイエーホークス(現・福岡ソフトバンクホークス)の監督に就任した。
徳光:
これは本当に日本中が驚いた。生まれ育った東京から離れる決断をしてホークスの監督に就任。あれはどういう経緯なんですか。

王:
ジャイアンツのユニフォームを脱いで6年たってましたよね。野球選手っていうのは、やっぱりあの輪の中にいるときと外れたときとでは胸の高まりが全然違うんですよね。なんて言うんですかね、置いてけぼりを食ったような感じなんですよ。
徳光:
なるほど、なるほど。
王:
当事者じゃなきゃ分からないと思うんですけど、あの輪の中から外れちゃった物悲しい気持ちがありましたね。みんな最初は「やれやれ」という気持ちで「しばらく野球から離れて」なんて思うんですけど、2年かそこらしたら寂しくなっちゃうんですよ。
徳光:
そういうものなんですかね。
王:
ジャイアンツは長嶋さんが監督でしたし、私はジャイアンツにはこだわってませんでした。ただ、やっぱりセ・リーグでしょっちゅうジャイアンツと戦うチームには行きたくなかったんですよね。
徳光:
そうなんですか。

王:
だから、行くんだったらパ・リーグのほうがいいだろうと。まあ、結果的に東京から一番遠いところになっちゃったんですね。
根本(陸夫)さんが熱心に誘ってくれたんですよ。根本さんは監督1年目なのに、あるとき会ったら、「おい、俺のあとをやってくれ」って。「だって、根本さん、まだ1年目じゃないですか」って言っても、「いいんだよ」って言ってね。最初はあんまり相手にしてなかったんですけど、2年目もまた誘ってくれて、ちょうど私もユニフォームを着たい気持ちがまた出てきたところでしたから、ちょうどいいタイミングになって。
王氏が監督に就任した当時のホークスは17年連続Bクラスの弱小チーム。1989年の福岡移転後もBクラスから脱却できない日々が続いていた。
徳光:
そういう決断があって、実際にユニフォームを着用したものの、本当にご苦労されましたよね。
王:
ホークスも今はだいぶ強くなりましたけど、やっぱり万年Bクラスのようなチームは、選手たちも優勝すると思ってないんですよね。野球やることは一生懸命やるんですけど、何のためにやるか、勝つためにやるっていう気持ちがちょっと薄い。
徳光:
ということは、王さんはメンタル面で、かなりおっしゃったわけですね。
王:
はい。メンタルは大きいです。プロですからメンタルさえあれば技術は出てくるんですよ。

王氏の監督就任後も、ダイエーの成績はなかなか向上せず、1年目は5位。2年目の1996年5月9日には、ふがいない戦いぶりに不満を爆発させたファンが、試合後に王氏や選手の乗ったバスを取り囲み生卵を投げつける事態まで発生した。
徳光:
非礼を覚悟でおうかがいしますと、卵を投げつけられたじゃないですか、あれはどんなお気持ちだったんですか。

王:
卵をぶつけられても、どうしようもないですよね。こっちは収まるのを待つしかないですし。ホテルに帰ってから選手たちに、「あれが本当のファンだ。ああいうファンの人が拍手してくれるように我々はやろう。いいきっかけになった。これだけファンの人が怒っているんだから、俺たちもそろそろ本気になってやろうよ」ということを言ったんです。
この1996年は最下位に沈んだホークスだったが、ここから徐々に順位を上げていく。97年は4位、98年に3位となり21年ぶりのAクラス入りを果たすと、99年にはついに福岡移転後初のリーグ優勝、中日相手の日本シリーズも制して日本一に輝いた。
徳光:
ホークスでの初めての優勝、あれはうれしかったでしょう。
王:
やっぱりうれしかったですよ。5年契約の最後の年だったんですよね。試合に勝つと、「よし」と思って、「また」って気になりますからね。私が最初に行ったときと、5年後に優勝したときでは、もう選手たちの目の色が違っていましたよ。
徳光:
そうですか。その延長線上が今のソフトバンクの強さになっているんですね。
王:
そうですね。今は勝つのが当たり前というようになっていますよね。
(ダイエーオーナーの)中内(㓛)さん、それから(ソフトバンクオーナーの)孫(正義)さん、2人ともすごく、「勝ってくれ、勝ってくれ」なんですよ。特に孫さんは「世界一になってくれ」って言うくらいの人ですからね。日本一になったくらいじゃ満足してくれないんですよ。
徳光:
(笑)。
王:
そういう人が上にいますから、みんな、頑張ろうという気になりましたね。そういう点では、常にかなりいい精神状態で野球をやってますよね。今はプロとして一番いいところにいると思うんです。選手たちは大変だと思いますけど。
王氏は、2005年に球団がソフトバンクに譲渡された後もホークスの監督を務め続け、2008年までの14年間で3度のリーグ優勝、2度の日本一に輝いた。
50年後・100年後の野球界のために

王氏は現在、「BEYOND OH! PROJECT」という新たなプロジェクトを立ち上げて、野球界の未来を見据えて、次世代のスターを生み出すために、プロとアマの垣根を越えて野球の振興に取り組んでいる。
王:
ほかのスポーツ、サッカーとかバスケットとかラグビーとか、みんな新しいプロができてファンの人もすごく多く行ってますよね。我々、野球界もここで何か考えなきゃいけないんじゃないかと。社会人の日本野球連盟、大学野球連盟、高校野球連盟とか、いろんな組織があるんですけど、これはみんな縦ばっかりで、横がないんですよ。
徳光:
なるほど。組織ごとで壁を作っちゃもったいないですよね。
王:
そうですね。横でやらないとダメですよね。30年後も50年後も100年後も野球が輝いているように、今、野球の将来をみんなで考えようよ。そういうことをプロ野球のオーナー会議とか、社会人のほうの皆さんとかにいろいろ話して、みんなで考えて手を打とうよということで活動してます。
(BSフジ「プロ野球レジェン堂」 25/2/18より)
「プロ野球レジェン堂」
BSフジ 毎週火曜日午後10時から放送
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