昭和後期のプロ野球に偉大な足跡を残した偉大な選手たちの功績、伝説をアナウンサー界のレジェンド・德光和夫が引き出す『プロ野球レジェン堂』。記憶に残る名勝負や“知られざる裏話”、ライバル関係とON(王氏・長嶋氏)との関係など、昭和時代に「最強のスポーツコンテンツ」だった“あの頃のプロ野球”、令和の今だからこそレジェンドたちに迫る!

今回のゲストはその王貞治氏。13年連続を含む15回の本塁打王に輝いたのをはじめ打点王13回、首位打者5回、MVP9回など数々のタイトルを獲得。長嶋茂雄氏とともに“ON砲”を形成し巨人V9に貢献。“一本足打法”でホームランを量産し世界記録となる通算868本塁打の金字塔を打ち立てた“世界のホームラン王”に徳光和夫が切り込んだ。

【前編からの続き】

ONアベックアーチ…第1号は天覧試合

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1960年代から70年代前半にかけ打撃主要3部門のタイトルは王氏と長嶋氏がほぼ独占する。2人はON砲と呼ばれ、同じ試合でホームランを放つアベック本塁打は実に106回を数えた。
このONアベック本塁打第1号は、1959年6月25日に行われたタイガースとの“伝統の一戦”、昭和天皇が観戦された「天覧試合」だった。この試合はシーソーゲームとなったが、長嶋氏は5回裏に同点ホームラン、王氏も7回裏に同点ホームランを放つ。最後は、9回裏の長嶋氏のサヨナラ本塁打で、巨人が劇的な勝利をおさめた。

王:
天皇陛下っていったら、あの当時の我々にとってはねぇ…。ですから、みんなすごく緊張して試合をしてましたね。

徳光:
長嶋さんは、「一番の思い出は天覧試合でのホームランだ」っておっしゃってました。

王:
あの大きな試合でホームランを2本打って、それも1本はサヨナラでしょう。やっぱり長嶋さんらしい素晴らしい活躍ですよね。

徳光:
それはそう思われましたか。

王:
ええ、ファンの人のこうやってほしいというときに、いい結果を出す。
それから、守備でも普通にできることを、なんかすごく華麗に見せる(笑)。やっぱりそういうスター性っていうか、そういうものが最初からありましたよね。

“ライバル”江夏氏、平松氏、松岡氏との勝負

徳光:
ミスターのライバルは村山さんって言われますけど、王さんはやはり江夏(豊)さんですか。

王:
私がどうのこうのっていうよりも、そういう形で比較されてましたよね。確かに彼は打ちにくかったですよ。球がほんとに強いっていうんですかね。当時としてはやっぱり頭抜けてましたね。

江夏氏は1968年にシーズン401奪三振という不滅の記録を打ち立てたが、この年の9月17日の巨人戦で、タイ記録である353個目の三振と新記録となった354個目の三振は、ともに王氏から奪っている。

徳光:
江夏さんはこの2つの三振を、王さんから狙って取った。

王:
彼はそう言ってますね。私だってそりゃ三振したくないですから、何も当てるバッティングとかそういうことは考えませんが、とにかく思い切っていったんです。でも、高めのほんとに力のある球で、自分としては精いっぱい振ったんですけど、やっぱり当たりませんでしたね。見事なピッチングでした。

徳光:
俺に向かってきてるなっていう、そういうものはやっぱり感じましたか。

王:
感じましたね。「打てるもんなら打ってみろ」って投げてくるのは、彼くらいでしたね。

徳光:
ただ、江夏さんが一番ホームランを打たれたのも王さんなんですよ。20本。

王:
だから、お互いにいい勝負したんですね。

王氏が打った868本のホームランで、投手別で最も多かったのが大洋(現・DeNA)の平松政次氏だ(25本)。カミソリシュートを武器に三振の山を築いた平松氏だが、「プロ野球レジェン堂」に出演した際には、「王さんはどこに投げても打たれそうだった」と語っていた。

王:
彼はものすごく球の切れがいい。糸を引くようにきれいでね。それから、やっぱりシュートが良かったですよ。

徳光:
そうですよね。

王:
だから、(シュートが内側に食い込んでくる)右バッターは嫌だったんじゃないですかね。途中からスライダーを覚えてね、シュートとスライダーと真っすぐですから。だから、打ちあぐんだ方ですね。

うなるような剛速球で191の勝ち星を積み重ねたヤクルトの松岡弘氏は「プロ野球レジェン堂」で、「王さんに『速いボールを投げてこい、俺、打てねえから』と言われて投げたら、パッカン、パッカン打たれた」というエピソードを披露してくれたが…。

王:
いやいや、彼はピッチングの幅がそんなに色々あったわけじゃなくて、真っすぐとカーブでしたけど、「200勝できなかったのは残念だな」と思うくらい良いピッチャーでしたよ。

HRは抜かれても四球記録は抜かれない

徳光:
王さんは投手のコントロールミスをほとんど逃さなかったような気がするんですけど、コントロールミスっていうのは投げた瞬間に分かるんですか。

王:
そうですね。長嶋さんはどっちかっていうと何でも打てちゃうタイプでしたけど、私は四隅のボールは苦手な方でしたから、最初は甘い球だけを狙ってるんですね。だから、それ以外の球は案外見逃したりしてました。フォアボールがすごく多いのは、好球必打のバッターだったから。

徳光:
そういうことなんですね。

王:
どんな球でも打つ方じゃないんで。だから、相手ピッチャーが警戒していることもあるんでしょうけど、バッターのタイプとしてフォアボールが多かったんだと思いますね。僕のフォアボールの記録は破られないと思います。

王氏の通算四球数は2390。2位の落合博満氏の1475に900以上の差をつけて断トツだ。

王:
ホームランは、大谷君みたいな突拍子もないのが出てくると思うんですよ。でも、フォアボールだけは僕は抜かれないと思いますね。

徳光:
そうですね。それは両サイドをなるべく打たなかったってことですかね。

王:
私は、ホームランを打とうと思っているから、両サイドのボールはなかなか行かない。ツーストライクまでは選べるわけですから、真ん中辺の甘い球、ピッチャーでいえば失投ですよね、それを逃さず打つっていうタイプだったんですね。

徳光:
王さんを相手に失投って多かったんですか。

王:
こっちが打てば打つほど、失投が多くなってくるんですよ。意識するがゆえに、余計中に入ってくるんですね。

徳光:
そういうことですか。

王:
僕は器用じゃないんですね。不器用なんです。だから、両サイドの球は打っても不利だから打たなかった。それが結果的には良かったと思いますね。

日本シリーズ…山田久志氏から伝説のサヨナラ弾

1971年の日本シリーズで巨人は阪急ブレーブス(現・オリックスバファローズ)と対戦。1勝1敗で迎えた第3戦で、巨人打線は8回まで2安打無失点と山田久志氏にほぼ完璧に抑えこまれていたが、1対0とリードを許して迎えた9回裏ツーアウトランナー三塁一塁の場面で、王氏が山田氏からサヨナラ3ランを放ち逆転勝利。この勝負は球史に残る名場面として語り継がれている。

徳光:
僕の印象では、あんなに喜んだ王さんは見たことがありません。756号を打ったときよりも喜んでましたから。

王:
そうですね。あの年は私は調子が悪い年で、シーズンも40本を切っちゃったんですね。

徳光:
39本。

王:
それで、日本シリーズでも1戦、2戦とあんまり打てなかったんです。山田君は自信を持って、どんどん真っすぐで攻めてくるんですよ。調子がいいときはさばけるんですけど、調子が悪くなると速い球は打てないんだよね、全部ファウルになっちゃう。あの試合もだいぶ三振を取られてると思うんです。
あのときは柴田(勲)君がヒットを打って、長嶋さんがつないでくれて、そのときは私の頭の中にはホームランなんかないです。とにかくなんとかしてヒットを打って同点にしたいっていう思いだったんです。不思議なんですけど、あのときのホームランは、ほんとに自分でも見事なホームランでした。スランプの中なのに低いライナーで一直線でしたから。
あんまりホームランを打って喜ぶことはなかったんですけど、あのときだけは自分自身で興奮しましたね。なんか頬がこわばっちゃって…。だから、徳光さんが言われたように、僕自身の態度も日頃と変わったんだろうと思うんです。やっぱりそのくらいチームにとっても貴重だったですし、私にとってもすごくうれしいホームランだったんですね。

徳光:
そうですか。へぇ。

ピタッと動かない一本足打法

徳光:
王さん、ちょっとご自身の現役時代の構えを解説していただけますでしょうか。

王:
はい、いいですよ。早く打ちにいこうとすると肩が開いちゃうんで、肩はあんまり開かないようにしてました。それで、相手投手の足が上がったときに、自分も足を上げて、下ろすのを我慢するんですね。若いときはいつも部屋で一本足で立つだけの練習をしてました。

徳光:
当時、一本足で立っている王さんは、子どもが押しても動かなかったと。

王:
当時はね。

阪神などで活躍したキャッチャーの田淵幸一氏も「プロ野球レジェン堂」で、「王さんが構えると、どこを押しても倒れないんじゃないかっていうくらい。足から根が生えてました」と語っていた。

王:
彼とは阪神のキャッチャーとして勝負しましたしね。彼はものすごく攻撃的な球をピッチャーに要求してましたよ。

一本足でバッティングのタイミングを合わせていた王氏だが、逆にタイミングが取りづらいピッチャーもいたという。

王:
私はどっちかっていうと正統派のピッチャー、スムーズに投げてくるような人が良かった。クシャクシャって投げてくるような人はあんまり得意じゃなかったんですよ。ボールの出どころが見にくいピッチャーっていうのは嫌でしたね。

2年連続の三冠王

1972年まで王氏はホームラン王と打点王の二冠を7回、ホームラン王と首位打者の二冠を3回獲得。そして1973年についに三冠王に輝く。翌74年にも2年連続で三冠王となった。

徳光:
この三冠王というのは、王さんはどういうふうに受け止めてらっしゃいますかね。意識して取りに行こうと思ったんですか。

王:
いやいや、そんなことはありません。

徳光:
全くないんですか。

王:
はい。三冠王を取る2年前に、私はすごいスランプになって、ホームランが40本を切って打率も3割を切っちゃったんですね。そのときに色々工夫して乗り越えられて、それが三冠王につながったんだと思います。

長嶋氏引退試合で最後のアベック弾

王氏が2度目の三冠王に輝いた1974年のシーズンで、長嶋氏は17年の現役生活にピリオドを打った。

徳光:
長嶋さんが引退セレモニーでグラウンドを回っていたとき、王さんの姿が見えなかった気がするんですけど、王さんはどこにいらしたんですか。

王:
僕はベンチにいました。

王:
コーチの人に聞きましたら、王さんも涙してたと。

王:
ええ。あの日、長嶋さんがホームランを打ったあと、僕も1本ホームランを打てた。これが最後のアベックホームランだったんですよね。

徳光:
天覧試合が1号で、長嶋さんの引退試合が最後のアベックホームラン。

王:
でもね、みんな、まだまだ信じられない部分があったんですよね。普通はだいぶ前に「辞める」って言うじゃないですか。でも、長嶋さんはそういうことは言ってませんでしたからね。

徳光:
なるほど。

長嶋氏の引退とケガで成績悪化

徳光:
1973・74年と2年連続三冠王だったのに、75年にはスランプになってホームランが33本になっちゃいましたよね。

王:
あの年は、長嶋さんが現役を退いたんで、私は1人になったんですね。
キャンプでアメリカのベロビーチに行ったんですけど、行く前から日本でちょっと足を肉離れしてまして、帰ってきて試合に出てたら、やっぱりちょっとおかしい。開幕戦は甲子園で阪神対巨人の試合だったんですけど、私は先発を外れてるんですよ。

徳光:
そんなことがあったんですか。

王:
結局、田淵君のサヨナラホームランで負けたんです。

徳光:
この年は田淵さんがホームラン王で、王さんの連続記録が13年で途切れました。

王:
そうです、そうです。
長嶋さんがいたときは、長嶋さんと競争してっていうのでやってましたけど、この年は長嶋さんがいなくなって僕1人でしたし、ちょっと足もケガしたりして。

徳光:
えぇ、えぇ。

王:
それから、監督が14年やってた川上さんから長嶋さんに代わって、「長嶋さん、どんな野球をやるのかな」とか、選手たちの意識もちょっとベンチのほうへ行ったりなんかしたこともあるんですね。14年もやってた監督が代わるっていうのは、やっぱりそれだけ大きな影響があるんだなと、そこで初めて知りました。それまでは、そんなことを考えたこともなかったですけど。
私は3年目のときに、監督が水原さんから川上さんに代わったんですけど、そのころは、監督が代わろうが代わるまいが、ヘボのほうは関係ないんですよね。だけど、中心選手だとね。
それと、肉離れもあったので、その年は、とうとう最後まで調子が出なかったですね。

徳光:
見方を変えれば、長嶋さんは、ある種、チーム内ライバルだったわけですよね。

王:
ライバルというより、この人は特別な人なんですよね。だから、常に意識はしてましたからね。

徳光:
そうでしょうね。

【後編に続く】

(BSフジ「プロ野球レジェン堂」 25/2/18より)

「プロ野球レジェン堂」
BSフジ 毎週火曜日午後10時から放送
https://www.bsfuji.tv/legendo/