昭和後期のプロ野球に偉大な足跡を残した偉大な選手たちの功績、伝説をアナウンサー界のレジェンド・德光和夫が引き出す『プロ野球レジェン堂』。記憶に残る名勝負や“知られざる裏話”、ライバル関係とON(王氏・長嶋氏)との関係など、昭和時代に「最強のスポーツコンテンツ」だった“あの頃のプロ野球”、令和の今だからこそレジェンドたちに迫る!

プロ野球最多記録となる11試合連続完投勝利、2年連続20勝など数々の偉業を成し遂げた斎藤雅樹氏。最多勝5回、沢村賞3回、通算180勝96敗。1980年代後半から1990年代にかけて槙原寛己氏、桑田真澄氏とともにジャイアンツの三本柱として活躍し、“平成の大エース”と呼ばれたレジェンドに徳光和夫が切り込んだ。

野球を始めたきっかけは「市政だより」

徳光:
斎藤さんが野球を始めたあたりからお話を伺いたいと思うんですけど、お母さんが無断でリトルリーグに申し込んだそうですね。

斎藤:
そうなんです。小学5年生のとき、(埼玉県)川口市の「市政だより」みたいなのが来て、そこにリトルリーグの募集が出てたんですよね。そしたら、うちのお母さんが試験に応募しちゃったんですよ。

徳光:
じゃあ野球は子どもの頃からやってらしたんだ。

斎藤:
それまでソフトボールをやってました。町内会のソフトボールで、それなりにまずまずできましたけど、チームに入って練習したりとかそういうんじゃなくて、遊びの中で…。

徳光:
お母さんは野球選手にしようって希望があったんですか。それとも、息子に才能ありと見たんですかね。

斎藤:
いや、多分そうじゃないと思います。何かさせたかったんじゃないですかね。

徳光:
それに対してご本人はどうだったんです。

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斎藤:
僕は嫌だったです。

徳光:
嫌だったんですか。

斎藤:
チームに入るっていうのはあんまり好きじゃなかったんですよね。でも、試験に行けば行ったで、ちゃんとやっちゃいますから。走るのもグーンってまあまあ速かったですし、センターからバックネットのほうに向かって投げる遠投でも、バックネットにガシャーンって当てました。多分、「こいつ、肩が強いな」みたいには思われたと思うんですよね。

徳光:
それが11歳の頃ですか。

斎藤:
10歳ですね。

徳光:
すごいね。10歳でもう肩が強かったわけだ。

斎藤:
まあ、そうですね。

徳光:
お母さんの先見の明ですね。

捕手としてリトルリーグ関東大会決勝進出も…

斎藤:
でも、練習に行くのは嫌でした。上のクラスと下のクラスがあって、入ったときは下のクラスだったんですね。一応、試合に出てピッチャーをやったりはしてたんですけど、全然うまくもなくて、すごく怖がりで打つときに足がフッて後ろに引けちゃうみたいな子だったんですよ(笑)。そういう子なので「嫌だなぁ」と思ってました。

徳光:
そうなんですか(笑)。その頃からピッチャーをやってたんですね。

斎藤:
最初はピッチャーだったんです。でも、6年生になって自動的に上のクラスに行ったら、たまたま、その年代にキャッチャーがいなかったんです。だから、3~4人がキャッチャーのポジションを試されて、僕が正捕手の権利を取ったわけです。それで、キャッチャーのレギュラーになったんです。

徳光:
じゃあ、野球の出発点はキャッチャーだったんですか。

斎藤:
そういうことですね。僕たちのチームは、球がまあまあ速い良いピッチャーが3人くらいいたんですよ。だから強かったんです。関東大会の決勝まで行って、テレビでも映ったんですから。

徳光:
へぇ。

斎藤:
決勝では調布リトルとやったんです。

徳光:
名門ですね。荒木大輔さんがいた。

斎藤:
そうです。でも、荒木は多分そのときはもういなかったと思いますね。

徳光:
あ、そうなんだ。

斎藤:
それで負けちゃったんですけど、僕は3回くらいパスボールして、途中で代えられました(笑)。

「運命の再会」で市立川口高校へ

徳光:
中学時代はどうだったんですか。

斎藤:
川口市立北中学で野球部に入って…。

徳光:
そこで頭角を現す。

斎藤:
現さないです。全然現さない(笑)。

徳光:
ということは高校に引っ張られたりとか、そういうことも…。

斎藤:
全くないです。ただ、川口では川口工業が甲子園に出てたし、僕の知ってるお兄ちゃんもそこに行ってたので、僕もそこに行くもんだと思ってました。
そんなとき、リトルで一緒にやってた人たちと、「みんな、高校どこ行く?」みたいな話になって、「練習に行ってみようよ」って行ったのが市立川口の野球部だったんですよ。

徳光:
えぇ、えぇ。

斎藤:
そこの監督さんが、どっかで見たことのあるおじいさんだなと思ったら、リトルのときの事務局長で、運動具屋さんをやってた人が監督だったんですよ。

徳光:
じゃあ、3年ぶりに会ったわけだ。

斎藤:
そういうことです。内山清さんっていって、阪神でピッチャーやってた人です。

当時の市立川口高を率いていたのは内山清氏。1948年に大阪タイガース(現・阪神タイガース)に入団すると1950・51年に2年連続で開幕投手を務めるなどして活躍した右腕だ。現役引退後は、スポーツ用品店を経営するかたわら、川口工業・川口高校の監督を歴任した。

斎藤:
「じゃあ、ここへ来たいね」なんて言ってたんですけど、市立川口はまあまあ勉強しなきゃ行けませんから、それから塾に通いました。

徳光:
そうなんですか。そういう出会いがあったんですね。

斎藤:
はい。

早実との練習試合…スカウトの前で1失点の好投

徳光:
でも、市立川口は野球校としてはそんなに有名な学校じゃないですよね。

斎藤:
そうですね。でも、埼玉大会ではベスト16とか32くらいまでは大体行ってる。そこら辺。
僕が1年生で入ったときは、3年生が5人しかいなくて2年生が7人、その時点で12人しかいなかったんで、1年生がいきなりベンチ入りメンバー入れるわけです。僕は一応そのときから入れました。

徳光:
それは投手だったわけですか。

斎藤:
いや、内野をやったりしてました。2年生になったくらいのときにピッチャーをやるようになって、毎年やってた群馬の前橋商業との定期戦で投げたら、「まあまあいい球放る斎藤っていうのがいるじゃねえか」みたいな噂がチラホラ。1個上に1番の人がいて、その人が投げたり僕が投げたり、そんな感じでしたね。

斎藤氏が3年生だった1982年6月に市立川口と早稲田実業との練習試合が組まれた。当時の早実のエースは荒木大輔氏。この時点で4季連続で甲子園に出場しており(最終的には5季連続出場)、甘いマスクで人気を集め「大ちゃんフィーバー」と呼ばれる社会現象が巻き起こっていた時期だ。

斎藤:
僕たちは甲子園も出たこともない学校。早実は大ちゃんが3年生で、1年、2年、3年とずっと甲子園に出てる常連校。普通は練習試合ができるわけがないじゃないですか。

徳光:
そうですよね。

斎藤:
だから、どういう経緯で組まれたかっていうのは全く知らないです。

徳光:
ということは、荒木さんと投げ合ったってことですか。

斎藤:
いや、荒木は途中からしか投げなかったです。先発は西武に行った石井丈裕です。僕はそのとき石井のことをあんまり知らなかった。大ちゃんしか知らないから。それで、1対0で負けたんですね。僕も1点に抑えて三振も10個くらい取ったんですよ。

徳光:
当時の早実から。

斎藤:
はい。

徳光:
それは注目されるな。

斎藤:
スカウトもみんな荒木とかを見にくるじゃないですか。だから多分そのときに、市立川口の斎藤っていうのが、一応プロのスカウトの目には触れたとは思いますね。

徳光:
そうか、面白い。荒木さんを見に来たスカウトが、「これは一体何なんだ、すごいピッチャーだぞ」ってね。これも一つの縁かもしれませんね、

斎藤:
かもしれない。

斎藤氏はこう語るが、荒木氏によると話が異なるようだ。「当時、早実の練習試合にそこまで多くのスカウトが来ることはなかったので、スカウトは斎藤氏を見にきたのではないか。練習試合を組んだのも、早実としては斎藤さんと試合がしたかったのでは」と荒木氏は話している。

斎藤:
あら、そうなの。

徳光:
そういう説もあるんですね。

斎藤:
なるほど。へえ、そうなんだ。

練習サボってアイドルの握手会に

斎藤氏が3年のとき、市立川口は夏の埼玉大会で決勝に進出したものの、熊谷高校に3対1で敗れ甲子園出場はかなわなかった。

徳光:
県大会で決勝まで勝ち進んだことで、プロに行けるのではという感じになったんですかね。

斎藤:
僕、プロ野球に行きたかったんです。どこでもいいので行きたかったです。プロから声がかからなかったら、社会人に行こうと思ってました。大学っていうのはいじめられそうで。僕の中ではそういうイメージなんです(笑)。

徳光:
市立川口ではそういうことはなかったんですか。

斎藤:
全くないです。多少は先輩に怒られたことはありますよ。だけど、鉄拳制裁は1回もないです。

徳光:
当時、プロ野球選手になった中では珍しい環境。

斎藤:
そうだと思います。だって、練習さぼって河合奈保子ちゃんの握手会に行ったりとかしてましたから(笑)。

徳光:
へえ(笑)。

斎藤:
残ってた人が、「おい、斎藤たち、どこ行ったんだ!」って聞かれて、「河合奈保子を見に行った」って正直に言ったら怒られたみたいです。行ってない人が怒られた(笑)。

徳光:
あ、そうなんだ(笑)。

斎藤:
はい。僕は怒られたた記憶が全くないんですよね。

徳光:
じゃあかなり自由な高校だったんですね。

巨人のドラフト1位指名にビックリ

徳光:
高校3年のとき、プロのスカウトからは話はあったんですか。

斎藤:
何人か来られてたみたいなんですけど、僕は一切会わずに、全部、内山さんが窓口になって対応してくれてました。
唯一会ったのがジャイアンツのスカウトだったんですけど、それは学校に「新聞記者です、取材です」っていうことで来られたんですよ。で、会ったときにパッと名刺を見たら、ジャイアンツの名刺だったんです。「あ、ジャイアンツだ」と思って。多分、僕がプロに行く気があるかどうかだけを確認しにきたんだと思うんですよ。もし指名して断られたりすると面倒くさいじゃないですか。だから、行く気があるかどうかを聞きにきたのかなって思ってるんですけどね。

徳光:
じゃあ、ほかにどこの球団が来たのかは分かんないんですか。

斎藤:
基本的には全部来たとは言ってました。

徳光:
へぇ。一番熱心だったのはどこでした。それは内山さんから話を聞かなかったですか。

斎藤:
中日です。中日の人は、「必ず指名しますから」と言ってくれてました。僕は1位とかにこだわってなかったんで、「もう何位でもいいですから」って言ってたんですね。そのときの中日は1位は大学生って決めてたみたいなので、もう「どうぞ、どうぞ」。2位でも3位でも何でも指名してくれたらプロに入れるわけだから、それでいいやと思ってたんですね。

徳光:
それで、どうしてジャイアンツになったんですか。

斎藤:
その年、中日が優勝してジャイアンツが2位だったんです。当時は、外れ1位はウエーバー制で下位球団から順に指名だったじゃないですか。
ジャイアンツは1位で荒木大輔に行って抽選で外してる。中日も大学生に行ったんですけど外したんです。外れ1位はジャイアンツのほうが先に指名権があったわけで、そこで僕をポーンッて指名しちゃったんです。だから、僕はジャイアンツで決まっちゃったんですね。

徳光:
これもほんとに縁ですね。ジャイアンツに指名されていかがでしたか。

斎藤:
いや、まずビックリですよね。「えっ?」と思って。あの頃ってドラフト会議が午前中だったんですよ。僕が授業を受けてたら、お昼前くらいに学校に黒い車がガンガン入ってきて…。「うわ、すげぇな」ってなって。で、お昼食べずに対応したみたいな感じでした。

徳光:
ジャイアンツだからっていうこともあったかもしれないね。

斎藤:
もちろんそうです。一応ジャイアンツの1位ですからね。あれはすごかったですね。

【中編に続く】

(BSフジ「プロ野球レジェン堂」 25/1/21より)

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