昭和後期のプロ野球に偉大な足跡を残した偉大な選手たちの功績、伝説をアナウンサー界のレジェンド・德光和夫が引き出す『プロ野球レジェン堂』。記憶に残る名勝負や“知られざる裏話”、ライバル関係とON(王氏・長嶋氏)との関係など、昭和時代に「最強のスポーツコンテンツ」だった“あの頃のプロ野球”、令和の今だからこそレジェンドたちに迫る!
プロ野球最多記録となる11試合連続完投勝利、2年連続20勝など数々の偉業を成し遂げた斎藤雅樹氏。最多勝5回、沢村賞3回、通算180勝96敗。1980年代後半から1990年代にかけて槙原寛己氏、桑田真澄氏とともにジャイアンツの三本柱として活躍し、“平成の大エース”と呼ばれたレジェンドに徳光和夫が切り込んだ。
【前編からの続き】
藤田監督のひと言でサイドスロー転向
投手としてジャイアンツに入団した斎藤氏だが、当初は打撃センスの良さから野手転向も検討されたという。
斎藤:
投手で入ったんですけど、なんかイマイチだったんですよね。それで二軍守備コーチの須藤(豊)さんが僕を「内野手にしろ」みたいなことを言ってたらしくて、二軍首脳陣の中で、ピッチャーでいくのか野手でいくのかっていう話になってたと思うんですよ。
そんな中、7月くらいに藤田(元司)さん、一軍の監督が二軍の練習を見に来たんですよ。それで、僕のピッチングを見て、「投げ方を変えろ。ちょっと腕を下げてごらん」と言われたのが、サイドスローになるきっかけですね。

徳光:
ジャイアンツ入ったときはオーバースロー。
斎藤:
そうです。
徳光:
サイドスローを見抜いた藤田さんは大したもんですよね。
斎藤:
そうですね。僕を語る上では、藤田さんに投げ方を変えてもらったっていうのは外せない話ですね。今だったら、1年目のピッチャーをあんまりいじることないじゃないですか。
徳光:
まずないですね。
斎藤:
僕もコーチをやりましたけど、入ってきたばっかりのやつに、いきなり数カ月で投げ方を変えろって言うのは、かなり自信がないと…っていうところですよね。
徳光:
そうですよね。最初にサイドで投げたときに、自分に合ってると思われましたか。

斎藤:
カーブがすごく曲がったんですよね。ビューンっていって曲がったんです。「うわ、すげぇ曲がる」って自分でもビックリしました。
多分腰の回転が横回転だったんだと思うんですよね。それなのに上から投げてるからバランスが合ってなかった。それを腰の回転と腕の回転を合わせたことによって、カーブがビューンって曲がったんですよね。それで、「あ、これでやってみようかな」っていうふうには思いましたね。
徳光:
実際に答えが出たのは、それからすぐなんですか。
斎藤:
その7月のときに言われたのが、「9月に埼玉県の大宮でイースタン・リーグの試合があるから、それまでに投げられるように、できるようにしろ」。だから、その2カ月間でほんとビッチリやって、9月に大宮で投げたんです。
徳光:
結果は。
斎藤:
たしか1対0か何かで負けたんだと思うんですけど、それでも7回くらいを1点で抑えたんです。上から投げてるよりは、はるかにいいですよね。それが3敗目だったんですよ。上から投げてたときに2敗してたから、それで0勝3敗になったんです。
でも僕は1年目、イースタン・リーグで5勝4敗なんです。つまり、そこから5勝したんですよ。
徳光:
サイドにしてから。
斎藤:
サイドに変えてから5勝1敗で乗り切ったんです。だから、自分の中でも、「サイドでいけるかな」っていう気持ちがあったと思います。
3年目にローテーション定着も…

斎藤氏の一軍デビューは入団2年目の1984年だった。4勝0敗、防御率3.07で2年目のシーズンを終えると、翌3年目はローテーションに定着、リーグ最多の4完封、チーム最多の12勝をあげる活躍を見せる。
斎藤:
その年はほんと良かったんですけど、そこからまた、4年目、5年目、6年目と落ちていったんですよね。そこからダーッといっとけば…。4年目はまあまあなんですけど。もう5年目は最悪ですよね。

斎藤氏は4年目が7勝3敗、5年目は0勝0敗、6年目が6勝3敗と目立った活躍ができなかった。
徳光:
これはどうなんですか。やっぱりサイドからのストレートとかカーブなんかがバッターに慣れられたんですかね。
斎藤:
そうですね。それもそうだし、自分の中でも何かうまくいってなかったですね。
藤田監督の復帰と中尾孝義捕手で覚醒
徳光:
でも、そこからまた2桁投手になりますよね。何がそうさせたんでしょうか。
斎藤:
1989年から藤田監督が帰ってこられたんですよ。
徳光:
あ、そうか。
それに、これも大きかったと思うんですが、西本(聖)さんとのトレードで中日からキャッチャーの中尾(孝義)さんが入ってくるじゃないですか。相性が良かったですよね。

斎藤:
それも89年なんですけど、藤田さんが来られたっていうのも一つ、それから中尾さんが来られたのも大きかったですね。あとで中尾さんに聞いたら、「藤田さんに『斎藤をどうにかしてくれ』って言われた」って言ってました。
徳光:
そうなんですか。
斎藤:
はい。
徳光:
やっぱりリードが全然違いましたか。
斎藤:
僕はインサイドを投げるのがあんまり得意じゃなかったんですね。それでも中尾さんはずっと、しつこいくらいインサイドのサインを出すんですよ。そしたらだんだん投げられるようになった。そこでまた呼び起こしてもらったのかなっていう気がしてますね。
人生が変わった大洋戦完投勝利
1989年5月10日の大洋戦で斎藤氏は完投勝利をあげる。この試合が斎藤氏にとって大きな転機となった。
斎藤:
その3日前に広島戦でやられてるんです。先発して3点取られて初回で代えられちゃったんですよ。それで、「ああ、またこれで二軍にいっちゃうかな」なんて思ってたら、「中2日で大洋戦、先発だ」って言われたんです。「よし、またチャンス」と思うじゃないですか。だから、その試合頑張ったんですよ。でも、8回に5対4の1点差まで追い上げられちゃったんですよ。
徳光:
ジャイアンツが5対1で勝ってたんだけど3点取られたんですよね。

斎藤:
そう。それで5対4。「もう代えてよ~、代えたほうが絶対いいよ」と思ってたら、藤田さんがマウンドに来られたんですよ。はっきり何て言われたか覚えてませんけど、「お前、自分でまいた種だから自分で刈れ」みたいなことを言われて。要するに「お前にもう任せた」っていうようなことだったんです。
徳光:
続投。
斎藤:
その回、何とか抑えて5対4でベンチに帰ったんです。今だったら、絶対に交代じゃないですか。
徳光:
そうですよね。間違いなく。
斎藤:
だけど9回もなぜか行かされたんです。「えーっ、交代じゃないの」と思いましたよ。でも、9回をなんとか抑えて完投勝ち。結局そこから11連続完投勝利が始まるんですけど…。
徳光:
そうですよね。あれが出発点ですよね。
斎藤:
そうですね、ほんとに自信がついたといいますかね。
徳光:
ですよね。記録では1試合ですけど、斎藤さんに取ってほんと大きい試合。
斎藤:
だと思いますね。

斎藤氏は、この大洋戦での完投勝利から7月15日のヤクルト戦まで11試合連続完投勝利を成し遂げる。これは現在も破られていないプロ野球記録だ。
徳光:
11試合連続完投勝利のうちに完封がなんと4試合もある。メンタル面でも、自分自身で自信がついてきたなみたいなところがありましたか。
斎藤:
もちろんありました。もう投げるのが楽しかったというか、そういうときでしたね。
平成以降ただ1人の快挙…2年連続20勝

この1989年、斎藤氏は30試合に登板して20勝7敗、防御率1.62の成績を残し、最多勝、最優秀防御率、最優秀投手賞、沢村賞を獲得した。
徳光:
20勝目は覚えてますか。
斎藤:
覚えてます、覚えてます。
最終戦ですよ。もう優勝も決まってましたから消化試合ですよね。その時点で僕の防御率が1.6ちょいで2位が槙原さんの1.7いくつか。投げなければタイトルが決まってたんです。だから…。
徳光:
それでいいと思ったんだ。

斎藤:
はい。それで、「いや、僕いいですよ」って藤田さんに言ったんですよ。そしたら怒られました。「お前、20勝なんかいつでもできると思うな!」って。そのとき、初めてちょっと怒られた感じです。
徳光:
そのときに瞬間湯沸かし器が出たんだ。
斎藤:
でした。「じゃ、行こう」と思って。
神宮のヤクルト戦ですよ。必死こいて投げて6回を失点0でした。だから20勝もできて、防御率もさらに良くなって、両方取りました。
徳光:
20勝はうれしかったでしょ。
斎藤:
うれしいですね。それこそ今思うと「20勝投手」って言われるわけですから。そのときは「別に20も19も一緒だよ」みたいな感じで思ってたんですけど、やっぱり全然違いますよね。
徳光:
違いますよね。
斎藤:
違います。
斎藤氏は、翌1990年も20勝5敗で、2年連続の最多勝と最優秀防御率、さらに最高勝率のタイトルを獲得する。平成以降で2年連続20勝を達成したのは斎藤氏ただ1人だ。
ヤクルトから通算50勝
斎藤氏があげた通算180勝のうち、ヤクルトからは実に50勝を記録している。1989年の本塁打王・パリッシュ氏は通算打率0割9分4厘と完全に抑え込んでいた。

徳光:
斎藤さん、この頃はまさに無双状態だったわけですが、ヤクルトにはワニを食べるやつがいたじゃないですか。
斎藤:
パリッシュですか。合わなかったですね。全く僕のカーブに合わなくて。
徳光:
でも、パリッシュって確かメジャーでもすごいんだよね。250本くらいホームラン打ってるようなバッターでね。ヤクルトでも42本塁打で本塁打王だったわけですが、それを0割9分4厘という成績。すごいですよね。
ほかにも、当時のヤクルトの主力打者・広澤克実氏に対しては通算打率2割1分1厘、池山隆寛氏に対しては通算打率2割4分9厘と、斎藤氏に分があった。
斎藤:
ヤクルトではもう広澤さんとか池山とか、しょっちゅう当たってたんですよ。ヤクルトと試合すると、必ずこの2人がいるわけですから、もう否応無しに対戦数がすごく多くなるんですよね。
徳光:
でもパリッシュにも強かったし、ヤクルトはお客さんでしたね。
斎藤:
ヤクルトから50勝しました。
徳光:
よくヤクルト飲みましたよね(笑)。ほんとにね。
斎藤:
主力のバッターとは年間、何十回も対戦するじゃないですか。だから、ほんとにお互い手の内は分かりきってるんですよ。そこで、キャッチャーも含めてのやりとりで、バッターの狙いを外すというか、そういうのがピッチャーの仕事だと思うんですよね。
【後編に続く】
(BSフジ「プロ野球レジェン堂」 25/1/21より)
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