1995年1月17日に、「阪神淡路大震災」が発生してから…ちょうど、30年。

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「めざまし8」は映像に残された「教訓」と、地元に受け継がれる「記憶」を取材しました。

すべてが燃えてしまった中…残された“生き証人”

淡路島北部を震源とし、神戸市や西宮市の一部などでは、最大震度7を観測した阪神淡路大震災。

震災による家屋の倒壊や大規模な火災によって、甚大な被害を受けた、神戸市長田区では、921人が亡くなり、全焼した建物は4759棟にのぼりました。

「めざまし8」が取材したのは、当時、この地域で暮らし、そば店を営んでいた中村専一さん(85)。見せてくれたのは、当時、自身が撮影した日々の記録です。

震災で自宅と店を失った 中村専一さん:
財産はみんななくなってしまったけど…、どうやって借金を子供たちに残さずに死ねるかなって、そればっかりを考えていた。

8mmフィルムのカメラで撮影された映像に映っていたのは、一面に広がる倒壊した家屋や、1階部分が潰れた建物。経営していたそば店に行ってみると…。

中村さんが営んでいたそば店があった場所
中村さんが営んでいたそば店があった場所

中村専一さん「もう何もなくなったなぁ…、見事やわ…」

建物は倒壊し、所々で煙が立ち上る
建物は倒壊し、所々で煙が立ち上る

辺り一面が倒壊、全焼し所々で煙が上がっています。
煙が収まってから焼け跡を訪れましたが、金品はほとんど残っていませんでした。

地震直後は無事だった自宅も、近くの火事の火が燃えうつり全焼。
幸い家族は無事でしたが、家も店も失い、手元に残った持ち物は、撮影で持ち出したカメラだけでした。

その後、4カ月に渡った避難生活。その間も準備を続けていた中村さんは、プレハブの状態ながら、そば店の再開にこぎ着けました。

震災で自宅と店を失った 中村専一さん:
(再開して)何日間は確かに暇だったんだけど、それからはお客さんが来るわ、来るわ。超満員がずっと続いていた。

しかし、その後神戸市による店周辺エリアの大規模な再開発などもあり、再開した8年後に閉店。中村さんは、西宮市に移住しました。

中村さんが自宅近くから移植した柿の木
中村さんが自宅近くから移植した柿の木

震災から再開発の約30年間で、中村さんの家も店もなくなりましたが、唯一、長田に遺したものがありました。それは…自宅の近くにあった「柿の木」
震災の火事で焼けてしまったものの、根を掘り出し移植・接ぎ木したものが、今では立派に育っています。

震災で自宅と店を失った 中村専一さん:
これが、焼け残った柿の木です。僕がここに移植したんですよ。
30年たっています。もうこっち(長田区)を出るから、ここに植えた。だからこれは“生き証人”なのよ。

震災によって一変した故郷の様子。それでも、中村さんが暮らしていたことを示す“小さな証”は、街の片隅で静かに息づいていました。

災害で医師たちに迫られた選択

地震発生直後の、過酷な医療現場の実態を記録した映像も残されていました。
カメラを回したのは、当時、震源地近くにあった「県立淡路病院」の医師です。

淡路島で唯一の救命救急病院だった「県立淡路病院」。
棚から落ちた資料が床に散乱する中、救急診療室では、医師たちが次々と運ばれてくるケガ人の治療にあたっていました。

当時3年目の内科医で、その日は当直明けだったという水谷和郎医師(60)も、被害状況など何もわからない中で、懸命に治療を行ったといいます。

六甲アイランド甲南病院 循環器内科部長 水谷和郎医師:
とにかくもう、何が起きてるんや?っていうのが、分からん状況で次々運ばれてくる。病院中が「これは大変なことだ」というシフトになってきたのは確かですね。
(阪神大震災が) 戦後で起きた初めの集団災害っていうことになるので、そこで“トリアージ”っていうのが多分初めてされたということになります。

同時に複数の患者に対応する際、重症度によって治療の優先順位を決める、“トリアージ”
地震発生直後は軽いけが人が多かったものの、発生から2時間が過ぎたころには、続々と重傷者が運ばれてくる状況に変化していきました。

医師「これ、家屋倒壊の人ですか?」
救急隊員「そうです」

慌ただしさを増す院内。あちこちで心肺蘇生法が実施され、過酷な環境の中で、「命の選択」を迫られる医療従事者の姿が映し出されていました。

現場の指揮を執るのは、当時外科部長だった故・松田昌三医師。

松田昌三医師「とにかく助けられる人を助けなあかん。助からない人は諦めなあかん。この人も何分ぐらいか分かる?心肺停止(して)何分?」
救急隊員「現場到着してから、ここまで15分程度CPR(心肺蘇生)実施して…」
松田昌三医師「そのときはもうダメだな。よし、止めなさい。ストップ!次の人にかかろう」

重傷者が次々と運ばれ、決断が迫られる中、諦めなければならない命も…。

水谷和郎医師:
あのジャッジで、一人の人がやっぱり亡くなるわけですよ。普段の救急でもそうですけど、そう簡単にできる判断ではないですね…。
一人の人生がかかっているわけじゃないですか。やっぱ重いですね、そう考えると。

――水谷先生はできますか?
正直、自信はないです。

あれから30年。多くの忘れられない出来事がある中で、今も水谷医師の心残りになっていることが…。それは、震災で孫を失ってしまった女性の言葉。

水谷和郎医師:
おばあちゃんが、もう、最後に…「孫も死んでしもうて、私生きていてもしゃあないって…」それをね、なんかね…言わせてしまったなあという。
主治医として何も言えなかったんですね、そのとき、本当に何も言えなくて…。

当時を思い出し、思わず涙ぐむ水谷医師
当時を思い出し、思わず涙ぐむ水谷医師

そのときのことを思いだし、涙を流す水谷医師。
水谷医師は、今、震災を通じて得た様々な経験を次の世代に伝えるべく、学生らに災害医療に関する講義を行っています。

「悲しい思いをしている人の心の支えに」歌い継がれる“歌”

ガレキと化した神戸の街から生まれ、今も愛され続けている歌があります。

合唱曲「しあわせ運べるように」
作詞・作曲したのは、震災当時小学校で音楽教師として勤務していた臼井真さん(64)です。

神戸親和大学 臼井真准教授:
私の自宅は1階部分が完全に押しつぶされて、高さがなくなってしまって、あの状態でもし1階にとどまっていたら、もう完全に死んでいたなという状況でした。

命は助かったものの、続く地震に怯える毎日。
そんな日々を2週間ほど過ごした時のこと、臼井さんの胸に1つの思いが芽生えたといいます。

神戸親和大学 臼井真准教授:
この故郷・神戸のこの悲惨な状況に、子供たちの清らかな声が届けば、やがて街が復興し、悲しい思いをされている方の少しでも心の支えになればと。
私自身が太刀打ちできない地震というものに負けそうだった。だけどやっぱり亡くなられた方のことを思えば、どんなつらい状況にあっても毎日を大切に生きていかなければ申し訳ないっていう。

《合唱曲「しあわせ運べるように」 作詞作曲:臼井真》
「地震にも負けない 強い心をもって 亡くなった方々のぶんも 毎日を 大切に生きてゆこう」

神戸市内の小学校を始め、追悼式典や成人式でも歌い継がれてきた「しあわせ運べるように」。新潟県中越沖地震や、東日本大震災の被災地などでも歌われ、復興を願う歌として全国に広がっています。

震災から30年…震災を乗り越えた人たちそれぞれの“思い”

中村専一さん:
子供は震災を経験しているけれど、孫は震災を全然知らないから…、だんだん忘れられるというか、しょうがない部分やろうけどね。

水谷和郎医師:
全く白紙状態で、被災をしたらやっぱり動けない。ちょっとでも同じようなことがあって、「あ、こんなことしてたんやな」っていうのを気づいてもらって、次の災害に生かしていけるっていうことができたらなと思う。

神戸親和大学 臼井真准教授:
これから起こるかもしれない自然災害に備えて、今の当たり前の毎日がいかに幸せであるかっていうことを常に感じて、時間を大切にして生きていければいいかなと思います。
(「めざまし8」1月17日放送より)