昭和後期のプロ野球に偉大な足跡を残した偉大な選手たちの功績、伝説をアナウンサー界のレジェンド・德光和夫が引き出す『プロ野球レジェン堂』。記憶に残る名勝負や“知られざる裏話”、ライバル関係とON(王氏・長嶋氏)との関係など、昭和時代に「最強のスポーツコンテンツ」だった“あの頃のプロ野球”、令和の今だからこそレジェンドたちに迫る!

長身から投げ下ろすカーブ・フォークを武器に、東映(現・日本ハム)、南海(現・ソフトバンク)、阪神と渡り歩き通算113勝をあげた江本孟紀氏。引退後に執筆した著書「プロ野球を10倍楽しく見る方法」は200万部を超えるベストセラー。野球解説にとどまらずタレント、政治家などマルチな分野で活躍する球界のご意見番“エモやん”に徳光和夫が切り込んだ。

長嶋茂雄氏に憧れ「サードは聖域」

徳光:
生まれは高知の土佐山田(現・香美市)。当時から、プロ野球のファンだったんですか。

江本:
あの時代は、野球かプロレスかですからね。僕が10歳だった昭和33年、あの長嶋茂雄さんが、ご存じの通り…

徳光:
巨人軍に入団した。

江本:
そのとき、僕は、高知県の窪川町(現・四万十町)というところにいたんですけど、テレビもそんなにない時代に、あんなど田舎でも“長嶋茂雄”のオーラが…。なんなんですかね、あれ。長嶋さんはイメージだけで、あんな田舎にまで、すごく強烈なオーラが来ましたね。
僕らが子供のとき、みんなが長嶋さんに憧れたんだけど、みんなサードをやらないんですよ。なんでだか分かります。

徳光:
えっ、どうしてですか。

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江本:
サードはもう「聖域」、神様がやるところですから。あんなところをやったらバチが当たる。

徳光:
なるほど、それくらい長嶋さんに対するリスペクトがあった。

江本:
みんな、「いや、サードはいいよ」とか言って。普通はサードをやりたがるじゃないですか。

徳光:
そうですよね。

江本:
長嶋さんに憧れてサードをやるのは屁みたいなやつでね(笑)。本当の長嶋ファンはしませんよ。

徳光:
なるほど、分かるなぁ。

甲子園を夢見て…高知商業「エースで4番」

長嶋氏に憧れる野球少年だった江本氏は、甲子園を目指して高知商業高校に入学する。

江本:
僕が志したのは甲子園に行って、プロ野球から認められて、長嶋茂雄のもとへ行こうっていうのがあったの。それで、甲子園に行きやすい学校が高知商業。

徳光:
じゃあプロ野球選手になりたいという憧れは、高知商業時代からあったんですね。
それはピッチャーとしてですか。

江本:
1年のときからピッチャー。2年生の夏の大会まではピッチャーで9番でした。その後、新チームができて新しい監督が来て、「お前はピッチャーで4番だ」って言われました。

徳光:
バッティングも結構良かったんですね。

江本:
私は実はバッティングのほうが良かったんですよ。ホームランをパカパカ打ってましたし。

直前に出場辞退…幻のセンバツ

高知商業は1964年秋の四国大会で優勝し翌年春の選抜高校野球出場校に選ばれたものの、大会直前に発覚した部員の不祥事によって出場辞退を余儀なくされた。1年間の対外試合禁止処分を受け、夏の大会も参加できなかった。

江本:
新チームで、ピッチャーで4番になってから破竹の勢いで20何連勝。秋の四国大会でも優勝して、翌年2月1日に春の甲子園に選ばれた。もう天下ですよね。街の中を肩で風切って歩いてた。

江本:
それで、甲子園が始まる3週間くらい前だったですかね。3月に入って、みんなで喫茶店でテレビを見てたら、ちょうどNHKのニュースで、どこかの高校が暴力事件を起こして出場辞退っていうのが出たんですよ。

徳光:
はあ。

江本:
みんなで笑ってたんですよ。「バカなヤツいるな、今ごろ」って言って。よく見ると字幕に「高知商業」って出てたんですよ。
それで、鬼の高野連から1年間対外試合一切禁止。

徳光:
そうなんだ。厳しい時代でしたからね。

江本:
厳しかったですね。
試合ができないんだから練習をしたって意味がないじゃないですか。だから、練習も辞めて、それで終わりました。

センバツ開会式にスタンドで号泣

徳光:
センバツには出られなかったけど、みんなで開会式を見に行ったそうですね。

江本:
そうなんですよ。ちょうど修学旅行の時期で、学校の子がみんないないわけですよ。
野球部だけぽっかり何の予定もなくなっちゃって。それで、せめて思い出に甲子園の開会式でも見るかと。ところがね、これがダメでしたね。

徳光:
どうしてですか。

江本:
もう悔しいのなんのって。
四国の1位が高知商業、2位が高松商業、3位が徳島商業なんです。で、4位が愛媛の今治南っていう高校だった。この4位が僕らの代わりに出てきてるわけですよ。高知商は四国で優勝してますから、この連中を蹴散らしてるわけです。

徳光:
なるほど。

江本:
入場行進で、高松商業が出てきたときは、みんなで笑ってたんです。「こいつら弱かったなぁ、俺らに11点取られて」とか言って。次が徳島商業で、「ああ、こいつらも弱かったやん」。
そこまでは良かったんですけど、その後に自分らの代わりの学校が出てきたわけですよ。

徳光:
ええ、ええ。

江本:
それまではヘラヘラしてたんですけど、そのときに人間の心理なんですね、まあ悔しいのなんのってね。今治南が出てきたときは、さすがに…。

徳光:
本来、俺たちはあそこだったと。

江本:
そうなんです。そこで気がついたんですよ。それまで「あいつら下手くそやな」とか言って笑ってたんですけど、その瞬間にグワーッてきて、おそらく一生分の涙が出たでしょうね、悔しくて。

徳光:
そうですか。
でも、今の話を聞いてると、その経験が後の江本孟紀を作ったっていう感じがしますね。そこからの反骨精神。

江本:
はい。そうだと思います。

長嶋氏母校・立教大学へ進学するはずが…

1966年に高校を卒業した江本氏は法政大学に進学した。しかし、実はその前に、長嶋氏の母校である立教大学への進学がいったんは決まっていたという。

江本:
僕は長嶋ファンでしょ。だから、どうやったら長嶋さんのそばへ行けるかっていうのを考えたんですよ。

徳光:
なるほど。

江本:
甲子園に行けなかったら神宮の杜だと。で、親父に言ったら、「じゃあ、お前、学校の先生に言って立教のテストを受けさせてもらえ」と言ってくれた。
初めて東京に行って、立教大学のグランド、ブルペンでベーッって投げたら、監督も部長も「君が来てくれるなら素晴らしい」なんて言ってくれて、立教大学はOKだったんですよ。憧れの長嶋の元へ。田舎に帰って自慢しまくりましたね。

徳光:
でも、立教大学には来なかったじゃないですか。

江本:
立教大学は何を間違ったか、途中で断りの電話を入れてきたんですよ。

徳光:
ええっ。

江本:
 12月。立教大で体育会をあんまり優遇しちゃいかんという流れになったんです。
あのころ、学校で赤い旗を振る人たち(学生運動)が増えてきてたじゃないですか。

徳光:
すごかったですよね。ちょうど闘争の時代でしたからね。

江本:
はい。

法政セレクションで田淵幸一氏に仰天

徳光:
それで他の大学を探したわけですか。

江本:
道端で先輩にふらっと会ったら、「お前、そんなんで諦めるな。法政は12月から淡路島でセレクションをやってるから、そこへ行け」と言われて、それで、浜村(孝)という3番を打ってたやつと2人で受けに行ったんですよ。
彼は当時、西鉄(現・西武)のドラフト1位なんですよ。私がドラフト4位。野球を1年やってないのに。

徳光:
ドラフトにかかってたんだ。でも法政大学に進学。

江本:
そうです。プロに行く気は全くなかったんですよ。プロどころじゃない。要するによっぽど恨みがあるっていう…。

徳光:
甲子園の思いを神宮の杜で…っていう。

江本:
甲子園の変わりは神宮しかない。それで、淡路島でやってた法政のキャンプに行ったんです。
そこで練習を見てたらヒョロとした選手がいて、打ったらみんなホームランなんですよ。カパーン、カパーンて打ってるのを見て、「あ、これはダメだ」と思ったんです。僕はバッティングに自信があったんだけど、「こんなやつがいたんじゃ勝てないな」と。

徳光:
その先輩って。

江本:
そのヒョロっとした強烈なバッターが田淵幸一さんなんですよ。

徳光:
やっぱりそうですよね。

江本:
だけど、法政は、「あんたが来てくれるんなら」と言って、入れてもらったんですよね。

ドラフト直前 4年秋に監督に余計なひと言

徳光:
江本さんと田淵さんっていうことは180cmバッテリーだったわけですね。

江本:
そうです。3年の春にリーグ優勝したんですけど、そのときは慶應を2対0で完封して胴上げ投手になったんですよ。
でも、4年でも頑張らないとプロは誘いに来ないでしょ。

徳光:
そうですね。

江本:
「4年秋のシーズンに頑張ればプロにいけるな」と思ってた。
ところが、練習中に監督とちょっとトラブルが起きて…。余計なこと言わなきゃ良かったな(笑)。

江本:
1年生をいじめてるキャプテンがいて、保護者からクレームが来た。ネチネチやったやつに監督の説教が始まっちゃってね。なかなか終わらなくて、こっちも早く遊びに行きたいんで、いつまで怒ってるんだろうとイライラしてきて、「ちょっと待て」って言わなくてもいいことを…。

徳光:
言ってしまった。

江本:
かばったんですよ。これがいけなかったですね。
リーグ戦の前の日に、食堂でマネージャーがユニフォームをみんなに配るんです。見てみると、僕のユニフォームがないんですよ。
一番肝心なとき、4年の秋に出ないとプロには入れないですからね。

徳光:
ええ、そうですね。

江本:
僕はあくまでも長嶋さんのそばに行くつもりなのに、4年の秋に試合に出られなかった。「これはダメだな」と。それで終わったんですよ。

試合に出られずフィリピンバンドの運転手

徳光:
4年の秋に背番号をもらえないということは、ダッグアウトに入れないわけですよね。それでも地道に野球を練習してたわけですか。

江本:
いや、もうやらないです。練習するのは嫌でブラブラしてたんです。

江本:
そしたら、みんなの肩を診てくれたりしてた近所のマッサージ屋さんのおばちゃんから、「あんた、いい歳して元気なんだから働きなさいよ。どうせ試合に出てないんだから」って言われてね。「働くって何をするんですか」って聞いたら、「ちょうどいい仕事があるから」って紹介してくれたのがフィリピンバンドの運転手なんですよ。

徳光:
(笑)。フィリピンバンド全盛の時代ですよね。

江本:
青山にプロダクションがありましてね。赤坂、六本木…とバンド5つくらいを僕が受け持って…。

徳光:
バンドの送り迎え。

江本:
ええ、3時、4時、5時…、送り迎えをするんですよ。大学4年のときに働いてたんです。

徳光:
野球部なのに。

江本:
野球はすっかり忘れてました。
でも、「いつかチャンスは来るだろう」と思ってました。熊谷組に入ってサラリーマンしながら都市対抗に出ればね。

徳光:
じゃあ熊谷組は決まってたわけですか。

江本:
それは一応内定したんですよ。

(BSフジ「プロ野球レジェン堂」 24/9/24より)

【中編に続く】

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