秋吉:
やがてその女の子は別の地域の市営住宅へ引っ越していきました。それっきり、一緒に遊ぶどころか顔を合わせることもなくなった。それが、小学校も中学校も卒業した頃、母が街でその子とばったり再会したというんです。
彼女は中学を出てお勤めしていたらしくて、母は「今も笑顔がかわいかったわよ」っていうんですよ。大げさに思われるかもしれないけど、あの時、母の顔がマリア様のようにみえた。
下重:
大げさだなんて思いません、そんなお母さまをもって誇らしいわね。
家庭内キャリアウーマンの母
秋吉:
高等教育を受けているとか受けていないとかいうこととはまったく別の、人としての品性が現れていたと思うんです。母はいつもそんなふうでした。それから、私が子どもの頃、父はよく仕事関係の知人や友人を連れて帰宅しました。当時のことですから、ほとんどの場合はアポなしの来客です。
下重:
昭和の時代、そういうことはよくありました。
秋吉:
母はもちろん何も準備をしていません。内心困ったはずですが、嫌な顔一つみせず、あとから父に文句をいうでもなく、いつもテキパキと応対していました。
鮮明に覚えているのは、ある時、父が急にお客さんを連れてきたので、うちには家族4人分の夕飯しか用意がなかった。4切れの焼き鮭を用意した母は、「私はあとで食べるから」といってお客さんに出しました。食いしん坊の母でしたが、当然の顔でした。
下重:
家庭内キャリアウーマン。
秋吉:
それから、私や妹が病気で高熱を出したりすると、夜中の真っ暗な中を一人で病院へ駆けていってお医者さまを連れてきてくれました。そういう時、ほかの家庭では父親の出番なのかもしれないけど、うちの父は身体が丈夫ではありません。お坊ちゃん気質のところもあったので、病院へ走るのはいつも母でした。

下重:
先ほども「母性が強い」とおっしゃっていたけど、お母さまのそういう精神性は、自分のなかにも感じますか。
秋吉:
これは母から受け継いだのかなあ、と思う性質はありますね。たとえば、きつい撮影現場でも頑張ってこられたのは、深夜に病院へ走ってくれる母の背中をみていたからかもしれません。芸能の世界は華やかにみえますが、現場はもう戦場のようで……肉体的にきついことは多いです。
下重:
そうでしょうね。
秋吉:
雨の中をびしょびしょになって走ったり、冬に雪深い山を歩いたり、夏の真っ盛りに琵琶湖のほとりで十二単を着たままじっと待機したり。だから女優同士って、たとえ初対面であってもどこか「同志」のような気持ちで向き合えるんです。
好き嫌いや相性のよしあしを超えたところで、相手に共感できる。「この人も、自分と同じように厳しい現場を体験してきたんだろうなあ」と想像して連帯感をもてるので、リスペクトを胸に仕事ができます。そういう気持ちになれるのも、私のなかに母の血が流れているからかもしれません。
下重:
秋吉さんのなかに、まさ子さんが生きている。