昭和後期のプロ野球に偉大な足跡を残した偉大な選手たちの功績、伝説をアナウンサー界のレジェンド・德光和夫が引き出す『プロ野球レジェン堂』。記憶に残る名勝負や“知られざる裏話”、ライバル関係とON(王氏・長嶋氏)との関係など、昭和時代に「最強のスポーツコンテンツ」だった“あの頃のプロ野球”、令和の今だからこそレジェンドたちに迫る!
チャンスに強い内野手として巨人軍を支え、1980年代の4回のリーグ優勝・2回の日本一に貢献した中畑清氏。7年連続ゴールデングラブ賞受賞。労働組合日本プロ野球選手会の初代会長。どんなときでも威勢よく「絶好調!」と叫び続けた“ヤッターマン”に徳光和夫が切り込んだ。
【前編からの続き】
愛妻のアシストで日米野球で大活躍
この記事の画像(10枚)巨人に入団後もなかなか芽が出なかった中畑氏だが、3年目、昭和53年に開催された日米野球で大活躍する。ピート・ローズ氏、ジョニー・ベンチ氏、ジョージ・フォスター氏らを擁してメジャーリーグで圧倒的な強さを誇ったシンシナティ・レッズを相手に、第1戦で決勝点となる逆転2ランを放つなど、8試合で26打数7安打1本塁打の好成績を残した。
中畑:
日米野球は僕の人生を変えた一番の出来事ですね。日米野球があって、僕はレギュラーを取れた。
徳光:
あれで随分違ったものになったんですかね。
中畑:
「ビッグレッドマシン」って言われたスーパースター軍団で、いい選手が来てましたから。そのチームに逆転で勝つホームランを打った。ジャイアンツが(9試合のうち)唯一勝った試合でしたし。
実は、この大活躍の裏には、愛妻のアシストがあったという。
中畑:
ホームランのきっかけはコンタクトレンズなんですよ。
プロになって3年経って、レギュラーを取れなかったら辞めるというくらいの覚悟の年、最後のチャンスで日米野球に呼んでもらえた。
でも、その初日に片目のコンタクトレンズを流しちゃったの。替えなんかなかったし、お金もなかったから、慌てて女房に「コンタクトを流しちゃったんだよ」って電話したら、眼鏡屋さんに飛び込んでコンタクトを買って、タクシーで急いで後楽園球場まで来てくれたんですよ。
中畑:
新しいコンタクトを入れたら、それまでずっとあまり見えなかったのが、スワーッときれいに見え出しちゃって…。
徳光:
世界が広がったんだ。
中畑:
「あれ、こんなにきれいなのか」と思ってさ。女房が、きれいな目で打席に立たせてくれたことが、ホームランが生まれるきっかけなんですよ。
徳光:
あのホームランにそんなドラマがあったんだ。
中畑:
短い時間だったけど、僕の人生を変えた時間でしたね。
土井正三コーチの一言から生まれた「絶好調!」
徳光:
中畑さんの代名詞「絶好調!」は、いつごろ誕生したんですか。
中畑:
3年目。ミスターが練習中に「キヨシ、調子はどうだ?」って聞いてきたんで、「いやー、まあまあですね」って答えたら、それを聞いてた土井コーチに呼ばれて、「キヨシ、ミスターが『調子どうだ』って聞いて、『まあまあですよ』なんて言う選手を使うわけがねえだろ、バカ。『絶好調!』って言ってこい、このやろう」って。
中畑:
それから、聞かれてもないのに、自分からミスターのところまで行って、目の前で「絶好調です、絶好調です」って言うようにしたの。
徳光:
そうなんですか。
中畑:
最初のころは「うるさいな、お前は」だったんですけどね、一発成功しちゃったの。
長嶋さんって、ベンチで「代打に行きたいやついるか」とか聞いたりすることがあるのよ。そうすると、俺が「はい! はい! はい!」って誰よりも早く手を挙げるから、「よし、じゃあ、キヨシ、行け」って言って使ってくれるんですよ。それで連発するようになって、それが定番になってきたんですよ。
徳光:
なるほど。それで「絶好調!」なんだ。
中畑氏は4年目に一軍に定着。昭和54年の成績は100試合に出場して打率2割9分4厘、12本塁打、打点45だった。
徳光:
ここからが“中畑清”の出発だよね。
中畑:
そうですね。その「絶好調!」を言い続けて3カ月ぐらい、打ちまくったんですよ。常にマルチヒットで、信じられないくらい、ずーっと打ち続けて…。
徳光:
そして、この年のオフがあの伊東キャンプになるわけでしょ。
地獄の伊東キャンプ「朝が来るのが怖い」
昭和54年秋、巨人は若手選手を集めて静岡県伊東市で約1カ月間のキャンプを行った。その練習の厳しさは“地獄の伊東キャンプ”として語り草になっている。中畑氏のほかに江川卓氏、西本聖氏、鹿取義隆氏、角三男氏、山倉和博氏、篠塚利夫氏、松本匡史氏など後のジャイアンツの中心選手となるメンバーが参加した。
徳光:
伊東キャンプは、これからっていう選手が揃ったわけですよね。
中畑:
みんながみんなレギュラーを取っていった。トレードで他のチームに移った選手も成長して結果を出して一人前になれたのは、この伊東キャンプが土台ですよ。
徳光:
でも、伊東キャンプは内容的にはすごかったですよね。
中畑:
僕が野球やってきた中で、これほど苦しんだことはなかったですから。よく「野球漬け」って言われますけど、寝て、起きて、寝て、起きて…、起きてる間は、本当に野球のためだけに過ごしてる時間、体をいじめてる時間なんですよ。だから、ほかのことを何もやれてない。
僕は“カレーライス大好き人間”なんだけど、最初はお昼に出たカレーライスを吐くぐらい。体がカレーを受け付けてくれなかったぐらいの練習量。
夜になると、次の日の朝が来るのが怖くてね。「また、あの練習が始まるのか」ってね。
徳光:
でも、あれが良かったんでしょう。
中畑:
良かったなんてもんじゃないでしょ。伊東キャンプの存在は、我々、あのメンバーには最高の財産ですよ。だって、これだけやったんだからって裏付け、それしかないですもん。何とかなるんじゃないかっていうね。
中畑氏がたきつけた?篠塚氏の長嶋監督への暴言
篠塚和典氏が「プロ野球レジェン堂」に出演した際、「伊東キャンプ最終日のランニングで、長嶋監督に『監督、腕組みなんかしてねえで、一緒に走ってみろよ!』という暴言を浴びせたのは、中畑さんにたきつけられたから」と語っていた。中畑氏にその真相を確認すると…。
中畑:
「シノ、お前、なんとかミスターを走らせろ。お前が言ったら、絶対、走るから。俺たちじゃダメなんだ」みたいなこと言ったんです(笑)。
そしたら、あいつ、びっくりするくらいのタンカを切ったんだよ。「偉そうに腕組んで見てんじゃねえよ!」って。
俺らがみんな、「うおー!」ってびびっちゃうぐらい。
徳光:
まさか本当に言うとは思わなかったんだ。
中畑:
いや、シノがあの勢いで言うとは思わなかったんですよ。あれじゃ普通だったら頭に来るよ。
それが、長嶋さん、「何言ってんだ、てめえら。このやろう。シノ、見とけよ」って始まった。勢い良く一気に行きましたよ。傾斜があってきつい坂が80メートルぐらい続くのかな。それから150メートルぐらいなだらかな坂が続いていくの。それを登りきったら、すごくつらいんですよ。それをあの人、勢いよく行って…。
最初は「いよー、長嶋、長嶋」って応援してたんだけどさ。
徳光:(笑)。
中畑:
1周800メートルぐらいあるんだけど、なかなか帰ってこないんだよ。やっと帰ってきたなと思ったら、“ケツワレ”の代表選手みたいになってて。最後に「やり遂げたぞ、俺は」って感じでバターンと倒れた。
あれは長嶋さんと我々の距離がなくなった瞬間だったと思うんですよね。
長嶋監督退任、そのときテレビに向かって…
伊東キャンプ翌年の昭和55年に中畑氏は初めて規定打席に到達。打率2割6分8厘、22本塁打、打点57の成績を残した。
徳光:
規定打席到達で一人前のプロ野球選手になったっていう実感があったんじゃないですかね。
中畑:
規定打席に達するってことは、バットマンとして一番誇りにできること。規定打席っていうのは大事なんですよ。「これでやっとジャイアンツの一員に本当になれたな、これから俺たちが引っ張っていかなきゃいけないな」、そういう気持ちになりましたね。
でも、その年のオフに長嶋さんがクビになるじゃないですか。
徳光:
そうですね。解雇されますね。
中畑:
実は、ゴルフの練習場で知ったんですよ。そこにテレビがあって、「ニュースです」って退団の記者会見が始まったんですよ。それを見て、「ウソだろ、おい!」ってテレビ画面に叫びましたよ。
徳光:
じゃあ、選手は全く知らなかったんですか。
中畑:
全然。誰も知らなかった。
徳光:
そういう雰囲気はなかったんですかね。
中畑:
なんかそういう重々しい空気みたいなものを感じるところが、あったことはあったんですよ。勝てなかったから。
でも、我々がやっと成長して、来季はチャンスだなっていう雰囲気があったから。
徳光:
確かにありましたね。
中畑:
そうなんですよ。そういう機運の中でまさかですよ。「あっ、これはクビにさせられたな」って、すぐにピンときましたけど、ショックでしたね。
一番悔しかったのはやっぱり本人だと思うんですけど、本人は一言も…。
徳光:
言わなかったんだよね。
中畑:
愚痴を言わずに「次に託す」みたいな感じのコメントで終わったんですよね。「やっぱり、すごい人だな」って気持ちになりましたね。
原辰徳氏にサードを奪われるも“ケガの功名”
長嶋監督退任後、巨人の監督に就任したのは藤田元司氏。初仕事となったドラフトで4球団が競合した黄金ルーキー・原辰徳氏を引き当てる。藤田新監督は開幕から原氏をセカンドで起用した。
徳光:
藤田さんはどうでしたか。
中畑:
素晴らしい人物でしたね。目配り、気配り、思いやりっていうか。レギュラークラスには「当たり前だ」みたいな感じでほとんど気を遣わないんですよ。それよりも、裏方の人とかに対しての気遣いというのがね、人としての厚みがありましたね。
徳光:
今度は原辰徳さん入団の話になるんですけど、原さんは、最初、セカンドでしたよね。
中畑:
そうそう。篠塚がセカンドだったんだけど、そこに原が入るようになった。サードは俺に気を遣って動かさないでくれて。
でも、後楽園の阪神戦で、私が一塁に出塁して次の原が打った打球がサードゴロ。俺はダブルプレーを防ぐために猛烈なスライディングをかましたら、(阪神・セカンドの)岡田(彰布)の足に引っ掛かって、岡田が2回転ぐらいして俺の上に落っこちてきたのね。で、左肩の脱臼。
痛い肩を押さえてたら場内アナウンスが始まりました。「ポジションの交代です。サードは中畑に代わり原」。5万の観衆が「ウワー!」っていう大歓声。それが、ファンが望んでた形なんだよね。
中畑:
「ケガが治っても、あー、もうサードには戻れないな」。あの歓声を聞いた瞬間に俺はそう思った。
徳光:
サード・原で決まりだなと。
中畑:
「治ったあとはどうすればいいのかな」と思ってたら、首脳陣が考えてくれて、(山本)功児さんを外野に持っていって俺はファースト。ファーストの練習なんかしてなかったんだけどね。
徳光:
伊東キャンプが生きたなと思ったんですけど、ファーストでもゴロを捕るのは抜群にうまかったですよね。
中畑:
サードはひどかったけどね(笑)。
徳光:
いやいや。
中畑:
それで、ものすごくいい形でつながりができていくんですよ。打線がつながって攻撃力もアップしていく。天が与えたケガだって言っても過言じゃないぐらい。
徳光:
結果的にはこれが良かったわけですよね。
中畑:
良かった。日本一にもなったしね。いい思いができたんだよ。
藤田監督1年目の昭和56年、4年ぶりにセ・リーグを制した巨人は日本シリーズで日本ハムを4勝2敗で破り、V9最後の年以来8年ぶりの日本一に輝いた。
(BSフジ「プロ野球レジェン堂」 24/8/20より)
【後編に続く】
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