戦後、アメリカ軍の統治下にあった鹿児島・奄美群島。2023年12月25日、日本に復帰して70年となる。8年間続いたアメリカ軍の支配。日本への復帰運動に青春を捧げた男性の話から、当時の様子をひも解く。

貧しい生活 米軍兵はガムを投げて…

1945年(昭和20年)8月、終戦を迎えた日本。その半年後、奄美群島は沖縄とともに「日本」から切り離され、アメリカ軍の統治下に置かれた。奄美と「日本」の往来は原則禁止され、渡航するには米軍が発行するパスポートが必要となった。食料などの物資が入らなくなり、奄美の人々は貧しい生活を強いられた。

薗博明さん(89)
薗博明さん(89)
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鹿児島・奄美市に住む薗博明さん(89)は当時、小学校高学年だった。家が米農家だったため、食生活は比較的恵まれていたが、困った時は島に自生するソテツをおかゆにして食べていた。

「おいしいとかおいしくないとかではなくて、飲み込むのに一生懸命というくらいのうんざりするものだった」と語る薗さん。そんな貧しい生活をしている奄美の人々に対して、あるアメリカ軍兵がとった行動を今も覚えている。

薗博明さん:
ジープが止まって、子供たちが群がっている時に、米軍兵がチューインガムを投げてニヤニヤ笑っている。僕たちをバカにしているのか

学校でも授業がまともに受けられなかった。まず教科書がない。ノートや鉛筆もまともにない。1枚の紙が真っ黒になるまで書き、字が分からなくなるくらい何回もそこで練習した。

こうした状況の中で、奄美の人たちに芽生えたのが「日本に復帰したい」という思いだった。

日本復帰を願い断食も

あの時を振り返る時、薗さんがどうしても行きたいという場所がある。

名瀬市街地を見渡す標高約100メートルのおがみ山。地元の人たちが何か願いごとをしたい時に登る場所だ。当時おがみ山には日本復帰のために人々が集まり、気勢を上げた。

中学生になると、薗さんも復帰運動に加わった。島民の復帰への思いが高まる中、先頭に立ったのが、復帰運動の父と呼ばれた泉芳朗(いずみ・ほうろう)だ。

復帰運動の語り草となっているのが、高千穂神社で行われた断食。泉はこの場所で5日間の断食を行い、命がけで復帰を願った。泉を後押しするため多くの島民が集結。薗さんもかがり火をたきながら神社に一晩泊まり、共に断食を行った。

薗博明さん:
「断食があるから行こうや」という感じで、20人~30人かそれ以上、とにかくいっぱいいた。(泉芳朗については)「先頭に立って頑張っているおっさんがいる」というのが、あの時の中学生の感覚だった

当時のまま残る名瀬小学校の石段
当時のまま残る名瀬小学校の石段

泉の決死の行動で熱を帯びていく復帰への思い。それが結集した場所が名瀬小学校。当時ここでは復帰を訴える集会が何度も開かれた。演説のステージとして使われた石段が今も残っている。高校生になっていた薗さんは、泉が「外国に支配されてたまるもんか!」と、甲高い声で絶叫していたのを、鮮明に覚えている。

27回にわたり開かれた名瀬小学校での集会。時には1万人が集まったことも。薗さんも石段に登り、「太平洋の潮音は…」で始まる日本復帰の歌を歌った。(旧制)大島中学校・大島高校の応援団が応援旗を持ってきて、旗を振りながら歌った。みんなで一緒に歩調を合わせる雰囲気を作っていた。

今を生きる人たちへ

日本復帰への熱い思いで一丸となる奄美。アメリカ統治下になって約8年がたった1953年12月25日。奄美はついに日本への復帰を勝ち取った。街は歓喜に包まれ、人々は日の丸や提灯を手に街を練り歩いた。

その時のことを「『日本に帰ったんだよ』と連絡がきて、本当に夢を見るみたいにうれしかった」と述懐する薗さん。小中高の青春時代を占領下で過ごし、復帰運動に全てをささげてきた。今を生きる人たちに静かに訴える。

薗博明さん:
支え合い励ましあって共に生きていくというのが苦しい時代にはあった。歴史の中をどういう風に歩んできたか、振り返ってみようではないかと思ってほしい

日本復帰から70年。当時を知る人が少なくなる中、先人たちが残した想いを忘れることはできない。

(鹿児島テレビ)

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