鹿児島・奄美群島が戦後のアメリカ統治から日本に復帰して2023年で70年となる。奄美を代表する文化のひとつに「シマ唄」がある。そのルーツはどこにあり、米軍統治下時代をへて今後どのように継承されていくのかを追った。

“シマ唄”のルーツ

奄美大島北部・奄美市笠利町佐仁集落。午後6時、夕暮れとともに聞こえてきたのは三味線の音色と地元の人たちの歌声。独特の節回しで知られる「シマ唄」だ。

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地元の人は、「何も娯楽がなかったから唄が始まったと思いますよ」、「親戚が集まったり友達を呼んだりして夜が更けるまで唄遊びをしていました」と話してくれた。

奄美では集落のことを「シマ」と呼ぶ。シマ、すなわち集落の娯楽として人々が集い、歌い、できたのが「シマ唄」だ。鹿児島県本土と沖縄県の間に位置する奄美は、かつて薩摩藩と琉球王国から支配された歴史があり、両方の影響を受けて独特のシマ唄が育まれた。

奄美シマ唄の特徴の一つが「グイン」と呼ばれる唱法。ひとつのフレーズの中で地声と裏声を使い分ける。また歌詞には、「島口(シマグチ)」と呼ばれる奄美の方言が使われている。

歌詞には奄美の方言が使われている
歌詞には奄美の方言が使われている

日々の出来事や教訓を唄にしたり、男女が唄い合って恋の駆け引きをしたり。奄美のシマ唄はそこに生きる人々の日常を鮮やかに描き出していた。

アメリカの支配と島唄

1945年、日本は戦争に負けた。翌年、奄美群島は沖縄とともに日本から切り離され、アメリカの支配下に置かれた。日本との往来は許されず、物資も島に入ってこない。人々は貧しい生活を余儀なくされた。

安原ナスエさん
安原ナスエさん

「食べ物がなくて、おなかがすいても何にも食べるものがなかった」と10代だった当時のつらい思い出を語ってくれたのは、安原ナスエさん(89)。

家は貧しく、貴重な食料だったソテツの実すら手に入らなかったため、食料源は残った幹。ソテツを切り倒し、幹からデンプンが取れるようになるまで1カ月ほどかかった。それを鍋のお湯に注いですするだけ。

6人兄弟の長女だった安原さんは兄弟を食べさせるためにとにかく働き、学校にも行けなかった。

安原ナスエさん:
ただひたすら、その日その日を食べていくことだけを考えていた

そんな日々の中で安原さんの心を支えたのが、シマ唄だった。

安原ナスエさん:
昼は一生懸命、畑仕事をする。夜は若い人が海辺に集まって唄で遊んでいた。うれしいときもシマ唄。悲しいときもシマ唄。シマ唄は私にとっての財産ですよね

安原さんの言葉は力強かった。

「奄美シマ唄」が録音されたレコード
「奄美シマ唄」が録音されたレコード

アメリカ人の文化人類学者ダグラス・ハーリングが占領下で唄われていた奄美シマ唄を録音したレコードが現存している。苦しい生活の中でも悲壮感はなく、のびのびとした歌声が印象的だ。ジャケットには「あまみのフォークミュージック」と書かれている。

ハーリングは、「シマ唄は奄美にとってとても大切なもの。貴重な文化や自然を持つ奄美は日本に返還すべき」と考えていたという。日の丸を掲げることも許されず、貧しい暮らしの中でシマ唄を歌いながら必死に生きた奄美の人々。

復帰運動に一丸となった奄美は、1953年12月、日本への復帰を勝ち取ったのだった。

島唄が押し上げた奄美

奄美市の中心部・名瀬末広町にある「セントラル楽器」には、奄美シマ唄のCDがずらりと並ぶ。

懐かしさを感じるCDがずらり
懐かしさを感じるCDがずらり

どこか懐かしさを感じるジャケットもこの店で作って販売している。先代の経営者・指宿良彦さんが日本復帰後すぐ、シマ唄のレコード化に乗り出した。

現在の会長・指宿正樹さんは「(先代がシマ唄のレコードを作ったのは)楽しみがなかったからじゃないかな」と推測する。これから売れるのでは?とのもくろみもあったようだが、レコードは売れなかった。

レコードを聴くために必要な蓄音機
レコードを聴くために必要な蓄音機

当時、蓄音機を持っている人がほとんどいなかったのだ。それでも奄美の人々の「シマ唄愛」は本物だった。店でレコードをかけると人だかりができ、未舗装の道路にござを敷き、朝から晩までずっと聴いていたという。その後、時代とともにレコードが普及し、集団就職で島を出た奄美の若者たちの耳にもシマ唄が届いた。

名瀬商店街のすぐそばにある「かずみ」は、島料理とシマ唄が楽しめる店だ。女将の西和美さんも集団就職で島を出た一人だ。

西和美さん
西和美さん

「(嫁に行った兵庫で)義父がいっぱいシマ唄のレコードを買って家に置いていた。子どものころ夜中にどこかでシマ唄が流れるのを聴いていたから、聴いて懐かしいと思った」と振り返る。

故郷への思いがシマ唄のレコードを通してよみがえるころ、奄美大島から1人のスターが誕生した。1979年、当時放送されていた「輝け!日本民謡大賞」で日本一に輝き、連日、テレビやラジオに引っ張りだこになった、築地俊造さんだ。

築地さんの澄み切った歌声を生で聴いた和美さんはシマ唄にのめり込み、相方としてシマ唄界で活躍した。

和美さんは、「シマ唄をあんな(大きな)舞台で唄ってそれが認められるというのは私たちにしたら誇りだし、『やった!』というのもある」と語った。

日本民謡大賞では1989年に当原ミツヨさん、1990年に中野律紀さんと奄美出身の唄者が次々と日本一を獲得。中野さんはRIKKIの名で、「ファイナルファンタジーX」の主題歌も担当した。

2002年、奄美大島南部・瀬戸内町出身の元ちとせさんがシマ唄の節回しを生かした「ワダツミの木」を発表。その後デビューした城南海さんと、J-POPの世界でも奄美が注目され、奄美の人々にとって故郷は誇りとなったのだった。

島唄の今とこれから

今、奄美では子どもたちもシマ唄に親しんでいる。

大笠利わらべ島唄クラブ
大笠利わらべ島唄クラブ

奄美市笠利町で40年以上活動している「大笠利わらべ島唄クラブ」には、毎週30人以上の子どもたちが集まる。

對知広夫さん
對知広夫さん

クラブの立ち上げに携わった對知広夫さんは、「(島口を使う)シマ唄を教えたら、一石二鳥でいいんじゃないか、と始まった」と話す。

子どもたちを教えるのはクラブの卒業生。

「私はうたいに行くのが好きで毎週この場所に来るのが楽しみでした」と話す女性。今は息子が通っている。「唄がうたえるってよかった!と思う時が来ると思って通わせている」という人もいた。

對知さんも「30年も続くとは。教えた子がまた教えていく。できれば伝承していってもらいたい」と目を細めた。

子どもたちにシマ唄のどんなところが好きかたずねてみると「いろんな曲があるところ」、「自分好みの唄が見つかるところ」、「うたうのが楽しいと実感します」と次々に答えが返ってきた。

「(シマ唄は)ないといけない大事なもの。もっといろんな人に知ってもらいたい」という頼もしいコメントもあった。

元々は集落の仲間内で娯楽として歌われたシマ唄。いつしかそれは奄美の人々の支えとなり、さらには奄美の魅力を日本中に広めるきっかけにもなった。セントラル楽器・指宿会長は「シマ唄で奄美を全国にPRしたいとの気持ちがすごくあった。今はだいぶ普及して安心しています。肩の荷が下りて、良かった」と話す。

築地俊造さんの相方を務めた西和美さんも、「どんな形であれ下の世代がシマ唄を継いでいっているので楽しみがあります。次はどうなるのかな?長生きしてその先を見たい」と目を輝かせた。

先人たちがつないできたシマ唄は奄美の誇りとして、これからも響き続けていく。

(鹿児島テレビ)

鹿児島テレビ
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