東日本大震災から12年あまりが経過した今、課題とされているのが「記憶の風化」だ。「自分の言葉でひとりでも多くの命を救いたい」亡き夫に背中を押されるように、2022年に70代で語り部になった女性が福島県いわき市にいる。
70代で震災の語り部に
「避難したからこそこうやって私は皆さんとお話もできますし、皆さんに震災の様子を伝えることができます。だから何が大事か、まずは一番に自分の命を守ってください」
そう話すのは、福島県いわき市の木村貞子さん(75)。2022年5月に震災の記憶を繋ぐ語り部になった。
木村貞子さん:震災後ね、この海見るの嫌だったの。本当に。海見たくなかったの。なんでこの海があんなになったんだろうって、夏なんかキラキラしてるじゃないですか。その海が真っ黒い水で、海水で来たんだなと思うと・・・
この記事の画像(14枚)自宅が震災の津波で被災
いわき市久之浜町にある木村さんの自宅は、震災の津波で被災した。
「2カ月過ぎて、最初に来た時には何もなくて、ある程度整地されて、瓦礫が片付けてあったって。あとは何にも残ってませんでした」と当時を振り返る。
忘れられない言葉
地震のあとすぐに避難したが、木村さんには後悔し続けていることがある。
木村貞子さん:私が車に乗せれなかったおばあちゃんは道路挟んで目の前。大丈夫ですっていう息子さんの一言で、私はそのおばあちゃんを乗せなかったんですね、車に。乗せていれば助かった命だったのになって、ずっと思ってました。
「大丈夫です」木村さんにとって忘れられない言葉となった。
亡き夫に背中を押され
毎朝仏壇に手を合わせる木村さん。
「私ね毎朝ね、必ず家族のことをお願いして、主人に見守ってねって私も頑張っているからねっていつも話してるんです」
12年前、一緒に避難した夫の武さんは2022年に他界。あの時、武さんがいなければ自分の命は危なかったと話す。
木村貞子さん:お互いが、お互いを助け合ったんじゃないかなって、改めて思います。お父さんに助けられたんだな私は、って思います。
語り部に誘われたのは、武さんが亡くなった少し後のことだった。
木村貞子さん:語り部をやるなんて夢にも思ってませんでしたし。貞子やってみなって、お父さん言ってるのかなと思って。
震災から12年余りが経過し、記憶の風化が叫ばれる中、木村さんは「夫の分も自分の言葉で伝えたい」と亡くなった武さんに背中を押される思いで、語り部になった。
被災地見学の高校生を案内
木村貞子さん:底引き網の漁だから、海の底から魚を全部押し上げてくるっていう漁ですよ。
高校生:へー
この日は三重県の高校生が、いわき市の久之浜漁港などの被災地を見学。木村さんが案内を担当した。
木村貞子さん:久之浜第一幼稚園は、本当に浜辺にあった幼稚園です。でも先生たちのお力添えにより、子供たち誰一人犠牲になることはありませんでした。
当時の映像なども使いながら生徒たちに説明する木村さん。あの日を思い出し、手や声が震えることも・・
木村貞子さん:これからもまだまだ遠い月日がかかると思います。どのように再生していくかを皆さんの目で確かめておいて欲しいと思います。このような災害を2度と起こさないために。
木村さんが伝えたい思い
木村貞子さん:日本って小さい島国です。いつどこで何があるかわかりません。そのようなことがあるので、どうか皆さん自分の命を大事にしてください。どの辺が安心・安全なのかなっていうことを常に(家族と)話し合って下さい。
その思いは高校生たちにも伝わっている。
三重県の高校生たちは「いつ自分の身にも震災が起こるかわからないので、日頃から震災に関心を持って勉強していかなければいけないなと思いました」「三重県に住んでいるんですけど、今後大きい地震が来るっていうのは言われているので、実際に被災した人の話を聞いて自分の身を守れたらなと思いました」と話した。
「ありがとう、気をつけて~。さようなら~」
高校生を見送る木村さん。
「少しでも震災っていうのが、どういうことかっていうことをわかっていただけたかなと思ってます」
一言ずつ、一言ずつ言葉を紡ぐ。
木村貞子さん:皆の心に残るようなことを話していきたいかなっては思っています。いつ自然災害が起きるかわからない。それを一番に、子供たちに伝えていける、そういう語り部になりたいなと思っています。
忘れることの出来ない記憶と震災を経験したからこそ伝えたいこと。木村さんの言葉でこれからも受け継がれていく。
(福島テレビ)