優しかった父が疎開中に…

沖縄戦の激戦地となった糸満市摩文仁には、戦争で犠牲になった20万人余りを超える名前を一人一人刻む「平和の礎」がある。
国籍・民間人・軍人わけ隔てなく、沖縄戦前年の1944年3月から戦後概ね1年以内、南西諸島周辺で亡くなった人も対象。
1995年の建立以来、毎年遺族や関係団体からの申請を受けて追加刻銘され、2020年までに24万1593人の名が刻まれた。
遺骨や遺品が無い遺族にとっては、刻まれた名が在りし日の家族を偲ぶ“心のよすが”となっている。

75年の時を経て刻まれたのは、那覇市に住む上地德於さんの父親の名前。

上地さんは、戦争で命を落とした父・戸那さんの遺影をずっと大切にしていた。

上地德於さん:
(父は)かわいがるのは兄弟の中で(私が)一番だから、寝るときも必ず自分のそばに寝かして優しかった

父は日本軍に徴用され、宮古島の飛行場で作業に従事していたが、熱病にかかり命を落とした。
上地さんがそのことを知ったのは、小学校4年生のとき。疎開先の台湾でのことだった。

上原德於さん:
全然信じなかった。宮古に帰るまで約2年間。台湾から引き揚げてきたときに(母親が)道まで迎えに来ていたんですね、『よく帰ってきた』と。僕は『お母さんじゃなくて、お父さんに一番会いたい』と言ったもんだから、もう(母も)こらえ切れないわけさ

75年目の刻銘…しかし亡き父と兄は別の場所に

父と同じように、熱病で亡くなった近所の人の名が平和の礎に刻まれていることは知っていたが、当時は申請の方法がわからず断念。

2019年、上地さんは自身を奮い立たせた。

上地德於さん:
去年の7月に、脳がちょっと血管が切れて3か月くらい入院していたんですよ

退院後、家族の手を借りて宮古島市から戸籍謄本を取り寄せ、県に申請した。

上地德於さん:「長らく手続きをしないでごめんなさい」と言いたいよ。安心したというのか、ホッとしたというのか…あまりに長い間のことだから、なんて表現していいかわからないですね

刻まれた父の名を見て、上地さんの口から漏れた言葉は…

上地德於さん:
同級生で、お父さんがいる人はとってもうらやましかったよ

大好きだった父を奪われた悲しみ、心の奥に閉じ込めてきた思いがあふれ出た。

上地德於さん:
これはずっともうこっちですか?

兵隊に招集され命を落とした兄・盛榮さんの名前は、平和の礎の別の場所に刻まれている。

上地德於さん:
兄だけは帰ってくると思ってた。昭和22年に戦死広報と遺骨が来て

別々の場所で亡くなった父と兄。
同じ場所に名前を刻んであげたかったと、上地さんはじっと刻銘版を見つめた。

同時に75年の時を経て、父の生きた証を残し、戦争を知らない自身の子や孫に伝えていくことができると安堵の表情も浮かべた。

上地德於さん:
うちの子供も全くわからないさね、戦争のことは。今年中にでもみんなが休み一緒に取れれば来たいと思っています

(沖縄テレビ)