クラシック音楽は数百年を、演奏する者とそれを受け止める者の中で生き続けてきた。中世時代のヨーロッパに起源があるオーケストラは、現在世界中に“プロ“オーケストラ団として存在する。

その最高峰に君臨するのが、1842年に生まれたウィーン・フィルハーモニー管弦楽団だ。

音楽プロデューサーとしてのかたわら、彼らの公演収録に携わり、ウィーン・フィル楽団員の取材を続けてきた渋谷ゆう子さんの著書『ウィーン・フィルの哲学—至高の楽団はなぜ経営母体を持たないのか』(NHK出版新書)より、一部抜粋・再編集して紹介する。 

戦争や紛争など数々の危機に直面してきたウィーン・フィル。奏者同士が“会うことができない”という壁は180年の歴史の中で初めてだった。

その中で、どのように新型コロナウイルスのパンデミック期間を過ごしたのか。なぜ、彼らは“沈黙”を続け、どう世界の音楽界を動かしたのか。 

クラシック界のトップランナー「ウィーン・フィル」 

「音楽の都オーストリアのウィーンで生まれ、180年もの歴史を持つ世界最高峰のオーケストラ」と聞けば、その集団はいかにもコンサバティブで職人気質な性格が内在しているように見えるかもしれない。

そうした側面がないわけではないが、ウィーン・フィルは創設以来、一貫して奏者が全ての運営を行なってきた「個人事業主」の集まりであり、同時にクラシック界のトップランナーであり続けてきた。 

彼らの「個人事業主」ぶりがわかるのが、新型コロナウイルスによるパンデミック下での意思決定だ。危機は組織の本質をあぶり出すと言われるが、彼らの行動はウィーン・フィルの気質と業界におけるポジションをよく表すものだった。

2020年2月、新型コロナウイルスの感染拡大が中国・武漢で起きていた頃、楽団長は中国の音楽メディアに宛て、前年に中国ツアーで訪れた武漢市民へのお見舞いのビデオメッセージを送った。 

この頃まだ欧州をはじめとする多くの国での感染拡大はなく、ほどなくして欧州ツアーに出かけている。 

しかし間もなく、ヨーロッパ各国で感染が急速に拡大。3月11日、ドイツ・ミュンヘンでの公演をやむなく当日になって中止する。 

残りの欧州ツアー全ての中止を発表して帰国した数日後、オーストリアは厳しいロックダウンに入ることになる。最初のロックダウンは行動制限が厳しく、家族以外との接触を厳しく制限されたことから、コンサートはおろか楽団員が一緒に練習することもできず、全ての楽団員が自宅待機を余儀なくされた。  

こうした災禍の中で、音楽家たちは自宅で個人的に演奏を続け、簡易な録画や録音を自主制作しながら、ウェブを通じて自身の音楽を世界に発信しはじめた。

だが、ウィーン・フィルは、ただ一本の合奏動画をSNSで発表した以外、何の声明も出さず、頑なに沈黙を守っていた。 

世界中のファンやクラシック音楽業界は、彼らのこの沈黙が何を意味するのか理解できずにいた。 そして2020年5月、ロックダウン開始から約2カ月後、突如動き出した。 

芸術活動ができるよう政府と直接交渉 

表面的に見ればこの沈黙は、「普段どおり演奏できないならば無期限に活動を休止する」という、職人気質な判断のように思えるかもしれない。しかし水面下の動きを見ると、別の姿が浮かび上がる。  

ロックダウン中も奏者の代表で構成される運営委員らがオンライン会議を行ない、毎回3時間以上も今後の方針を話し合った。同時に運営トップの楽団長らが政府高官や首相と文化活動再開のための交渉を続けた。

ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団が独自に行った飛沫(ひまつ)拡散実験
ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団が独自に行った飛沫(ひまつ)拡散実験
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さらに独自に飛沫(ひまつ)拡散実験(エアロゾル実験)まで実施。この実験は彼らの主治医の立ち会いのもとで、本拠地である楽友協会「黄金の間」のステージで行なわれた。

弦楽器や管楽器など、それぞれの奏者に呼気計測装置をつけ、飛沫の拡散距離を計測するというもの。当時、世界各地で管楽器などの呼気の飛散についての実験が進んでいたが、ウィーン・フィルは全ての楽器に対して検証を行なっていた。 

その実験と検証結果が、2020年5月17日に公式ウェブサイトとオーストリア保健省から同時に発表される。

この実験結果を根拠とした演奏再開に向けて、ウィーン・フィル首脳陣はオーストリア政府高官と直接交渉を行ない、楽団長は当時の首相セバスティアン・クルツと、電話会談と面会をしている。 

オーストリアは共和制のため、国家元首である大統領と行政の長である首相という2人のリーダーが存在する。彼らが首相のクルツと綿密な会談を持ったのは明確な理由がある。 

アレクサンダー・ファン・デア・ベレン大統領はウィーンフィルの定期会員で、芸術活動の重要性を認識し、パンデミック下でもその活動を早くに再開することに理解を示していた。一方、クルツ首相はスポーツ派だったため、彼らはクルツ首相の理解を得ることが不可欠と考えた。 

交渉では飛沫実験の結果と共に、独自の感染予防策を構築することが約束された。リハーサル前に全員が検査を受け、陰性であることを確認したうえでステージに集うことを独自規定として整え、罹患(りかん)していない前提で通常の演奏を可能とすることを求めた。

つまり、これまで通りの奏者の配置と、マスクなどをしないで演奏することにこだわったわけである。 

交渉の末、オーストリア政府は文化面での規制を緩和し、観客の人数などの制限はあるにせよ、これまでどおりの公演を許可するに至った。

科学的根拠を持って政府に直接働きかける彼らの一連の手腕には、素直に驚かざるを得ない。彼らは一国の首相と電話会談し、アポイントをとって直談判に出るのみならず、法規制の変更まで求めている。 

いくら彼らがオーストリアの文化的シンボルだとはいえ、ここまでの力があるのかと、一連の動きを取材している間、驚きと共に怖さすら覚えた。

「ウィーン・フィルは特権階級だから」とオーストリアの他の音楽業界人が時々呆れたように揶揄(やゆ)するが、その言葉の真の意味を、このパンデミックで強く感じることとなった。 

ちなみにこの文化活動の規制緩和については政府内部でも賛否が割れ、規制緩和が発表された同日に芸術文化担当副大臣が辞任したことにも触れておきたい。 

コロナ禍、一流奏者が行った地道な基礎練習 

実験結果の公表と彼らの活動再開をきっかけに、欧州各国のオーケストラが再開に向けて動き始めたが、誤解を恐れずに言えば、この実験結果にはある種のご都合主義的な側面も見え隠れする。 

最も遠くに呼気が飛んだフルートでも80センチ以下だったとあるが、この距離では隣のフルート奏者に呼気がかかるだろうし、演奏の強弱によっては呼気がそれ以上に飛ぶ吹き方もあり得る。100%の安全を保証しているとは思えない実験結果だ。 

実際にこれを見た他国の奏者らから、これでは何の感染予防にもならないのではないかという疑念がSNSなどを通して上がっていた。 だが、こうした反対意見が出てくることも当然見越していたと思われる。 

疑念に対しては「ステージに上がる前に全員検査をするという方針を採用している」と説明。この方針はつまり、「奏者が感染していないことを事前に証明したうえで、科学的にも政治的にも認められた方法に則り、楽団員の総意として公演を再開し、 観客の感染予防策を独自に構築する」ということである。 

結果としてこの実験は世界中のオーケストラやホール関係者の関心を引いた。その後オーストリアは感染者数の増減に伴い、ロックダウンの発出と解除を繰り返してはいたが、ウィーン・フィルは2020年8月から、ザルツブルク音楽祭という1カ月間に及ぶ大規模なイベントに出演し、世界に先駆けて成功させている。 

だが、そんな彼らといえども、180年の歴史の中で、奏者同士が会うことすらできなくなったのは初めての事態だった。

この間、ある奏者は家族内で小さな室内楽を演奏し、ある奏者は窓を開けて近隣の人たちのために演奏を届けたという。練習ではあるが、それはウィーン・フィルの音であり、ウィーン・フィル奏者が持つ歴史ある音楽である。  

事務局長でありコントラバス奏者のブラーデラーは、ロックダウンの直後にこれまで取り組めなかった練習曲集を開いたという。購入してから数年間、日々の実務と演奏業務で開くことさえできなかった、50曲に及ぶ難解な練習曲集に挑戦した。

彼は「思ったよりも早くロックダウンが終わったから、半分しか進められなかった」と笑っていたが、音楽に前向きで真摯に取り組むこの姿勢に、ウィーン・フィル奏者の一流ぶりがうがえる。 

楽団長フロシャウアーはロックダウンで自宅待機している間、毎日2時間を基本的な運指と音階練習に使ったという。世界最高峰のオーケストラ奏者で、キャリアも長いこの2人ですら、地道な基礎練習を1日に数時間も行なうのだ。

困難に直面しても、ポジティブに切り替え、新たな目標に向かって地道な努力を怠らない。「個々の演奏技術においては、今が一番上手いかもしれませんよ」。再始動に際し、笑い話のようにそう語った彼らの姿に、世界の音楽家も励まされたのではないだろうか。  

『ウィーン・フィルの哲学—至高の楽団はなぜ経営母体を持たないのか』(NHK出版新書)
『ウィーン・フィルの哲学—至高の楽団はなぜ経営母体を持たないのか』(NHK出版新書)

渋谷ゆう子
音楽プロデューサー、文筆家。株式会社ノモス代表取締役として、海外オーケストラをはじめとするクラシック音楽の音源制作やコンサート企画運営を展開。また演奏家支援セミナーやオーディオメーカーのコンサルティングを行う一方、ウィーン・フィルなどに密着し取材を続けている 

渋谷ゆう子
渋谷ゆう子

音楽プロデューサー、文筆家。株式会社ノモス代表取締役として、海外オーケストラをはじめとするクラシック音楽の音源制作やコンサート企画運営を展開。また演奏家支援セミナーやオーディオメーカーのコンサルティングを行う一方、ウィーン・フィルなどに密着し取材を続けている