1963年、石川県志賀町から漁に出て行方不明となり、その後、北朝鮮で生きていた寺越武志(てらこし・たけし)さんという男性がいる。その寺越武志さんが北朝鮮から一時帰国したのが、ちょうど20年前の2002年10月3日だった。
その後の、拉致被害者帰国のモデルケースとも言われた寺越武志さんの一時帰国。当時、真相究明を知りたいと声をあげたのが、武志さんのいとこ達だ。

「助けられた」と語り…北朝鮮から一時帰国した寺越武志さんとは?

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寺越昭男さん:
あっちの岸壁くらいかな。多分、あの日は本当に風もなくて、きょうみたいに暑かった。声をあげて、はや20年経ったんだなって…。そういう思いはあります

寺越武志さんのいとこ、昭男さん(72)。
今から59年前の1963年5月、志賀町の漁港から漁に出た父親たち3人が突如、行方不明になった。

乗船していたのは、父の寺越昭二さん、おじの外雄さん、そして、いとこの武志さん。地元の漁協や海上保安庁が捜索したが、てがかりはなく、死亡したとされていた。

しかし24年後、一通の手紙が届く。

おじの外雄さんから届いた手紙。宛先に「日本国」と書かれ、ハングルも
おじの外雄さんから届いた手紙。宛先に「日本国」と書かれ、ハングルも

差出人は、おじの外雄さん。父の昭二さんは、亡くなったものの、いとこの武志さんと北朝鮮で暮らしているというのだ。

そして、2002年10月3日…。

39年ぶりに、武志さんが日本に一時帰国したのだ。
2週間あまり前には歴史的な日朝首脳会談が行われており、武志さんが帰国した約10日後には、5人の拉致被害者が帰国した。

なぜ、北朝鮮で暮らしていたのか。武志さんは朝鮮語で、こう説明した。

朝鮮語で「助けられた」と語る寺越武志さん
朝鮮語で「助けられた」と語る寺越武志さん

寺越武志さん(朝鮮語で):
志賀町高浜から船で行って、何かがあって、それで(朝鮮人民)共和国の清津の水産事務所で働いている船員に助けられた。そこで、小学校を卒業して、亀城で仕事をするようになった。

自分は拉致されたのではない、救助だったとくり返す武志さん。

武志さんを出迎える母・友枝さん
武志さんを出迎える母・友枝さん

武志さんの母、友枝(ともえ)さんは当時…

武志さんの母・友枝さん:
武志が「助けてもらった」と言うから、私は助けてもらったって、息子を信じるしかない

武志さんの発言に疑念…声をあげたいとこ・寺越昭男さんら3兄弟

しかし、武志さんのいとこで、父親が行方不明となっている寺越昭男さんは、その言葉を信じることができなかった。

3人が乗っていた船の写真が残っている。故障などはなく、何かにぶつかった痕があった。

何かにぶつかった痕があるように見える
何かにぶつかった痕があるように見える

この船が見つかったのは、港から7キロの沖合。日本の領海内だ。
一方、武志さんたちを助けたとする北朝鮮の船は、そこから800キロも離れた北朝鮮の清津から来たという。

会見で語る昭男さん(2002年)
会見で語る昭男さん(2002年)

寺越昭男さん(2002年):
声をあげるにつきまして、だいぶ悩みました。でも今、声をあげないとやっぱりこのままこの事件はうやむやになってしまって、泣き寝入りになるのではないかと…

北朝鮮へ戻る寺越武志さん
北朝鮮へ戻る寺越武志さん

武志さんが一時帰国しているさなか、昭男さんは、2人の弟と共に国に真相究明を求めた。しかし、武志さんは何も語ることなく、北朝鮮に戻っていった。

昭男さんの弟・北野政男さん:
武志が一時帰国できた。これから少しはいい方へ向かうのではないかという希望は持っていたんですけど…。残念なことに、いまだそれは実現されてない

昭男さんの弟・内田美津夫さん:
武志さんが一時帰国したあと、20年間1回も帰ってくることはできなかった。残酷なことだと思います

あれから20年。昭男さんはすでに70歳を超え、武志さんの母・友枝さんは90歳を過ぎた。

寺越昭男さん:
生きている間に、真相が分かってほしい。拉致被害者も亡くなって、被害者の家族も亡くなってしまったら、本当に誰も声をあげる人がいなくなってしまう。
「拉致問題なんてものがあったのか」ということにならないように、本当に日本の政府には頑張ってもらいたい

1日も早い真相究明を…。残された時間は、わずかだ。

(石川テレビ)

石川テレビ
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