3月1日、笠井信輔アナウンサーが仙台市立岡田小学校で防災の授業を行いました。11年前、避難所となっていたこの学校を笠井アナウンサーが取材してからも関係を持ち続け、今回の防災授業が実現しました。
先週の「週刊フジテレビ批評」では子供たちに“津波の怖さ”を伝えることを主眼とした授業を放送しました。後編となる今週の授業のテーマは「被災したときに子供たちができること」です。
(前編:笠井信輔アナウンサーが被災地で授業 東日本大震災11年…私たちが子供たちに伝えるべきこと)
子供たちだからこそ出来ること
笠井信輔アナ:
熊本で大きな地震がありました。熊本地震のことを覚えている人っている?
すると子供たちの数人が手を上げました。
まだ6歳か7歳の時に起きた熊本地震をテレビなどで見て覚えていたのです。
そして笠井アナウンサーはあるVTRをモニターに流しました。それは熊本地震発生から1週間後にフジテレビが取材した避難所の映像でした。子供たちが仮設のコーヒースタンドでコーヒーなどを被災者に提供したり、お年寄りの肩を揉んだりとボランティアに励んでいました。
自分たちと同じくらいの年代の子供たちの活躍する姿を食い入るように見る子供たち…
“子供たちにも出来ること”“子供たちだからこそ出来ること”があったのです。
その映像を見た子供たちはこんな意見を述べました
児童:
「地震とかがあったら自分もボランティアで活動して、誰かのためになりたいと思いました。」「こうやって子供も手伝うっていう心は、いろんな人のためになるっていうのがいいなと思いました。」
笠井信輔アナ:
避難所にやってきて誰が(困っている人の)面倒を見るのかということです。いるのは被災して避難してきた人たちだけです。「じゃあ私がやりましょう」と言って自分たちの街を自分たちで守るんだ。
これからの生活を自分たちでやるんだという意識を持たないといけない。誰かに「助けて」と言っているだけじゃダメなんですよ。
続いて笠井アナウンサーが見せたのは地震発生直後にツイッターで拡散された一枚の写真でした。
避難所となっていた熊本市内の高校のグラウンドに「カミ パン 水 SOS」という文字が描かれている写真でした。パイプ椅子を並べてつくられたメッセージで、アイディアを思いついたのはこの学校に通っていた高校生たちでした。
この記事の画像(8枚)笠井信輔アナ:
お子さんたちが、学校の生徒さんたちがみんな手伝って、紙とパンと水がほしいから、みんなでやろうって協力してやった。子供たちも役に立つことは十分ある。
さらに笠井アナウンサーが伝えたのは“笑顔”の大切さでした。
笠井信輔アナ:
大人たちというのはこれからどうしよう、家もなくなっちゃった、家の中ごちゃごちゃ、これからの生活、仕事も、お金も、給料もどうするの?もう皆さん、とにかく悩んでいる。
でも、子供たちが元気に遊んでいる避難所というのはそれを見ているだけで「大人も子供は元気でいいね」と力づけられる。だから、結構皆さんの存在って、とても大きいですよ。
そして、いざとなったら自分の命を守る行動をとってください。そうならないように願っていますけどね。今日の授業はこれでおしまいです。ありがとうございました。
6年生に続いて5年生にも同じ授業を行った笠井アナウンサーは今回の授業への手応えを感じていました。
笠井信輔アナ:
授業に対するお子さんたちの意欲の高さをとてつもなく感じました。やっぱり震災というものを知りたいということ。ですからやっぱり当事者たちが伝え続けていく、子供に、子供から孫に。つらいかもしれないけども、やっていくことが子孫の安全につながると私は考えます。
“震災遺構”の荒浜小学校へ
そして授業のあと向かったのは…海岸からおよそ700mの場所にある“震災遺構”。
仙台市立荒浜小学校です。震災前は、91人の児童が通う小学校でしたが津波により校舎は激しく損傷し、その後学校として使われることはありませんでした。2017年から震災遺構として公開され、年間200を超える学校の生徒をはじめ大勢の人が見学に訪れています。
この震災遺構を案内してくれるのは川村孝男さん。震災当時、この荒浜小学校の校長先生でした。
川村元校長:
補強工事が(震災の)7、8年前に終わっておりましたので、ちょっと入口狭くなっていますが、その分、校舎そのものは津波にも耐えることができました。
震災当時、1階部分は1年生と2年生の教室でした。天井にも津波による爪痕が残っています。
11年前の津波は4mを超え校舎の2階部分にまで到達しました。地震が発生した時間帯は、2年生以上の児童がまだ学校に残っていました。
校長だった川村さんと教職員たちは児童と避難してきた住民を誘導し3階、4階へと逃れたと言います。避難した人たち320人が全員救助されたのは、翌日の夕方のことでした。
そして1階の廊下に写真が飾られていました何の写真なのでしょうか?
川村元校長:
翌日水がちょっと引いたので、1階の様子を見に来ました。すると、この廊下だけどうしても通れなかったんですね。校庭側に回って撮影した写真です。
1階の廊下を校舎の外から写した写真でした。廊下からは分からなかったのですが、津波で流された3台の車とがれきが重なって廊下を塞いでいたのです。
川村元校長:
3台の車のうち2台はうちの職員の車ですが、1台はちょっと分からない。
笠井信輔アナ:
どっからきたか分からない車がドンと入ってきていたと…
続いて、4階へ向かいました。やってきたのは、たくさんの垂れ幕が下がっている部屋。これは当時の映像が見られる部屋でした。中へ入ると流されたのは17分のVTRでした。
この荒浜小学校に避難してきた近隣住民や児童たちが救助されるまでの27時間を当時の映像を交え伝えています。中には学校が津波に飲まれる衝撃的な映像も…
笠井信輔アナ:
荒浜小から見た津波ですか?
川村元校長:
4階のベランダから当時避難してきた方が撮ったものです。先ほどまで遊んでいた校庭が海のようになってしまうわけです。自分の家が流されるのを見たり、自分のおじいちゃん、おばあちゃんの家が流れるのをただ見るだけしかできなかったことが一番つらかったと思います。
震災遺構ではこうしたストレスへの配慮が必要な津波の映像を流す上で最大限の配慮をしています
川村元校長:
つらい時は目をつぶるように、音を聞くのも嫌な場合は廊下に出て休んでくださいというふうに必ず言うことにしています。
映像を見た子供たちからはこんな感想が寄せられていました。
子供たちの手紙抜粋:
「どうがは少しこわかったけど、すごい迫力がありました」
「17分間の映像で、何人の人々が犠牲になったかなどいろいろすごくて少し悲しくなってしまいました」
現在はテレビでもほとんど流されることのない津波の瞬間を映した映像は子供たちに強烈な印象を残していました。入り口の垂れ幕は、映像が部屋に入ってすぐ目に入らないよう配慮したものでした。
震災前のジオラマを作った理由
続いてやってきたのは6年生が使っていた教室。そこにあったのは震災前の荒浜地区のジオラマ模型でした。
笠井信輔アナ:
こんなに家があったんですね。
荒浜小学校の周りには住宅街が広がっていました。公園や商店、お寺まで。この街には2200人以上の人々が穏やかに暮らしていたのです。しかし、現在この地域は災害危険区域に指定され学校の周りには住んでいる人はいません。
このジオラマを作ったのには理由があると言います。
川村元校長:
悲惨な状況をただ垂れ流すだけでは怖さだけを覚えていく人もいらっしゃいますので、この教室には、災害当時の様子を物語るものはほとんど置いていません。
そういったことも震災遺構としては配慮すべきことなのかなと思います。
笠井信輔アナ:
津波から逃げるということは、基本的に“津波は怖い”というそういった恐怖の勉強もしなければいけないのかなと、一面そんな気持ちも私は持っていたんですけど…
川村元校長:
僕も同じ考えで、そういう現実を知ってもらわないとスタートはしないなと思います。でも、それがそれだけだと、荒浜地区っていうのがかわいそうな地区とか怖い地区でとどまってしまう。その次、自分がもしそういう時に遭った時にはこうしようか、ああしようかってできる子供になっていただきたいというのが、私個人的にも願いなんです。
笠井信輔アナ:
なかなか震災、津波教育って難しいですね。
津波の怖さを伝えるだけではなく、その先を…未来を考えるきっかけにして欲しい震災遺構が持つ意義がそこにあるといいます。あの震災から11年。
私たちが子供たちに伝えなければならないことはまだまだたくさんあるようです
震災11年で変わる子供たちへの教育
笠井アナはスタジオで次のように語りました。
笠井信輔アナ:
以前東京の中学校で授業をした時に、校長先生と相談してかなり激しい津波の映像を全校生徒に見てもらったんですよ。すると全校生徒からの感想文8割以上が津波があんなに怖いものだとは知りませんでしたと。津波の映像をほとんど見ていないことが東京の授業でもわかりました。
あの時何があったのかいうことを伝えるには、動く映像というのはとてつもなく貴重なんですよね。この川村先生は、初めの4年間はとにかくどれだけ悲惨だったか、どれだけ大変だったか、どれだけ怖かったかということを教えていたと。それはやっぱり避難の根源は恐怖心だからと。でも、今は違いますと。
私たち、海の近くに暮らしている者は海と共に生きていますと。
海は恐ろしいんだよ、海は人の命を奪うんだよということだけを教えるというのは、果たしてどうなんだろうかと…海って“素晴らしいんだよ”ということも自分たちは教えなきゃいけないんじゃないか。
荒浜小学校が水没する姿っていうのを映像で大画面で見てもらうんだけども、それを見終わった後に必ず近くの海へ行って、これが海なんだよ、あの海なんだよっていうと、「きれい」とか「広い」とか海を知らない子供たちは言うんですって。
そうなんだよ、海って、広くてきれいなんだよって、でもいざとなったら、逃げなきゃいけないんだよっていう、そういった教育に変えているんですって。それは本当によくわかりました
さらに岡田小学校の授業についてこう述べました
笠井信輔アナ:
被災した後の子供たちの心の持ちようというのを授業で教えようと思って、避難所で大人たちを救うことができるのは、屈託のない君たちの純粋な遊び心だったり、笑顔なんだよと。それこそが大人たちを救うんだから、みんなにできることはたくさんあるということを教えて、VTRを見てもらうと、私たちもお弁当を配ろうと思うってやっぱり思ってもらえる。だって、おばあちゃん、お弁当を子供たちからもらって泣いてるんだもん。
渡辺和洋アナ:
子供たちにしっかり届いて、っていうのは笠井さんも授業した甲斐がありましたね。
笠井信輔アナ:
本当にそれは良かったと思って。津波なんかに遭ってほしくないですよ。遭ってほしくないけども絶対に来るんだもん、90%の確率で。(今年1月政府の地震調査委員会は南海トラフで40年以内にM8~9の地震が発生する確率を90%程度に引き上げた)
だとしたら今からそれに備えるのは、それは行政のいろいろなシステム作りとかも大事ですけどもやっぱり、幼い子供たちからこういう時にはこうしていこうということを学んでもらうということを被災3県以外ではとったほうがいいんじゃないかと今回授業をして改めて思いました。
渡辺和洋アナ:
我々メディアも、引き続きこの東日本大震災の教訓を伝え続けていく必要があると思うんですが…
笠井信輔アナ:
ニュースっていうくらいで、新しいものを伝えていく、だから、今コロナ、オミクロン、ウクライナ、やらなきゃいけないことがいっぱいある。それは分かります。だけれども、3月11日くらいはちゃんとやろうよと。それは本当に思うんですよ。
(「週刊フジテレビ批評」3月19日放送より)