東日本大震災から11年。震災により深く心が傷つきながら、一本の電話で人生が変わり新潟市の味噌蔵で働く男性を取材した。
和釜で糀から手作り 90年続く味噌蔵
新潟市南区にある「すし政ダイニングさら」。店の味を表現するため、大切にしているのが味噌汁だ。

すし政ダイニングさら 小山政司さん:
糀屋団四郎の味噌を使っている。塩の加減がちょうどいい。
新潟市南区で90年の歴史を重ねる味噌蔵「糀屋団四郎」。藤井寛さん(38)はその4代目だ。

藤井寛さん:
他の味噌蔵と比べると甘みは控えめ。糀から手作りするというのは小さい蔵ならではの武器なので、今後も変えることはない。
糀屋団四郎には、創業以来続く伝統の製法がある。
藤井寛さん:
製法の肝となるのが和釜。

和釜で大豆を煮て、一晩留め置くことで煮汁の旨味を大豆に戻し、風味を豊かにしている。
藤井寛さんの妻・康代さん:
曾祖父から始まった糀屋団四郎。祖父や父、母が毎年この和釜で豆を煮てきたので、大事に使っている。

和釜の歴史について詳しく話すのは、寛さんの妻・康代さん。実は寛さんは…。
藤井寛さん:
糀屋団四郎に婿入りさせてもらった。
岩手の味噌蔵8代目だったが、震災で蔵と父を失い…
大学時代に糀屋団四郎で味噌造りの研修を受けた寛さんは、岩手県陸前高田市で200年続いた味噌蔵「和泉屋」の8代目。

藤井寛さん:
東日本大震災で、しっかりしている造りの味噌蔵が(津波で)基礎しか残らなかった。
2011年3月11日。当時、陸前高田市にあった和泉屋で7代目の父親と働いていた寛さんは、配達中に東日本大震災に見舞われたという。

藤井寛さん:
怖かったし、信じられなかった。
その揺れのあとに襲った津波は、200年続く味噌蔵の歴史をも奪い去った。

藤井寛さん:
和泉屋は終わってしまったんだなとしか思えなかった。
津波が寛さんから奪ったのは味噌蔵だけではない。
藤井寛さん:
父は行方不明で遺体は見つかっていない。3月11日の朝に配達で父と別れたのが最後。たまに、今も生きているかもしれないと思うこともある。

妻・康代さんの母に誘われ新潟へ 蘇った味噌造りへの情熱
その後、和泉屋の再建を断念し、味噌造りとは違う仕事をしていた寛さん。

その人生が大きく変わったのは、震災から8年後のことだった。
「味噌を造ってみませんか」。電話の主は糀屋団四郎3代目・喜代志さんの妻で、康代さんの母親でもある和代さん。

藤井寛さんの妻・康代さん:
大学時代に研修生だった寛さんを母が気に入っていた。
糀屋団四郎の味噌造りで宝ともいえるのが、自家製の糀。
藤井寛さん:
「良いものがたまたまできた」ではダメ。良い糀を造り続ける。

和泉屋の再建を断念した寛さんが糀屋団四郎を訪れ、糀に触れると味噌造りへの情熱が蘇った。

藤井寛さん:
一番に思ったのは父との糀造り。短い間だったけど、一緒に作業したことを思い出した。
2019年に岩手から新潟へ移住し、糀屋団四郎で味噌造りをするようになった寛さん。
藤井寛さん:
和泉屋は糀に一番力を入れていた。

200年もの歴史があった和泉屋の味噌造りのノウハウは、糀屋団四郎にとっても貴重な財産となっている。
藤井寛さんの妻・康代さん:
私たち糀屋団四郎の技術はまだまだなので、寛さんから色々聞いて、おいしい糀造りをしていきたい。

震災からつながった2つの味噌蔵「いつか和泉屋の味を」
味噌造りへの情熱は、寛さんに勝るとも劣らない康代さん。2人が結婚するのに多くの時間は必要なかった。
藤井寛さん:
今こうやって味噌造りをやれることと、隣に康代さんがいてくれることが幸せ。

東日本大震災で多くを失って11年。今を幸せと思う2人を結んだ一本の電話。
藤井寛さんの妻・康代さん:
私たちが結婚した1カ月後に母が病気で亡くなった。母は本当に寛さんとの結婚を喜んでくれていた。

2人で糀屋団四郎の4代目を継ぎ守るのは、しょっぱさが特徴の味噌。
藤井寛さん:
甘さが控えめな味噌造りはぶれてはいけない。
そんな2人にはいつか叶えたい夢がある。
藤井寛さんの妻・康代さん:
和泉屋さんの味を復活させたい。

藤井寛さん:
忘れないように、和泉屋の味噌の配合はノートに書いてある。まずは糀屋団四郎の製法を身につけてから。
東日本大震災をきっかけにつながった2つの味噌蔵が、新たな歴史を紡いでいく。
(NST新潟総合テレビ)