「クラーク」と聞くと思い浮かぶのは「少年よ、大志を抱け」という名言を残した札幌農学校のウィリアム・スミス・クラークだろう。

しかし、明治時代の日本にはもう一人の「クラーク」がいた。幕末維新の動乱を経たばかりの日本で教育に情熱を注いだ一人のアメリカ人教師・エドワード・ウォーレン・クラーク。

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フジテレビ系列28局が長く続けてきた「FNSドキュメンタリー大賞」が第30回を迎えた。FNS28局がそれぞれの視点で切り取った日本の断面を各局がドキュメンタリー形式で発表。今回は第1回(1991年)に大賞を受賞したテレビ静岡の「知られざる明治 もう一人のクラーク先生」を掲載する。

後編では、日本の教育に対する熱い思いを抱いたクラークの故郷で、彼の信条や帰国後の日本との関わりを探る。

(記事内の情報・数字は放送当時のまま記載しています)

牧師である父親の説教に影響

静岡の地に最先端の西洋学問を持ち込んだクラーク。若々しい情熱で、専門の理化学のみならず英語・フランス語、公的には禁教とされていたキリスト教を静岡の前途有為の若者たちに伝え、日本の近代化と日米親善に大きな役割を果たした。

そんな彼の生誕の地は、アメリカ東海岸のボストンよりさらに北に位置する、ニューハンプシャー州ポーツマス。

1849年、日本がまだ江戸時代の頃、組合派の牧師・ルーファス・W・クラークの三男として生まれ、2歳でここを離れている。

父・ルーファスが教会で行う説教は、奴隷制度に反対しただけでない。アメリカが領土拡大のために行ったメキシコとの戦争やイギリスの中国(当時、清)への侵略戦争、アヘン戦争をキリスト教徒として許せないと信徒たちに強く訴え続けた。

クラークが13歳まで過ごした場所は、ニューヨーク州のオールバニ。大学入学までの少年期をここで過ごした。両親の住むオールバニが、大学時代、そして日本にいた間も懐かしいホームタウンだった。

クラークが出版した『勝安房』

父親の精神がクラークに引き継がれていることを、彼の晩年の著書『勝安房』にも見ることが出来る。

勝海舟を描いたこの著書は、こんな書き出しで始まる。

「勝安房(海舟)とはだれか?と読者は問うだろう。彼はクリスチャンか?違う。彼は我々の西洋文明から生まれた人物か?違う。彼は教会や大学で教育を受けたのだろうか?それもまた違う。もし彼がクリスチャンでもなく、我々西洋人の尺度からは文明人でないとすると、彼は一体何者なのか。まず第一に彼は私が敬愛する人物である。私はキリスト教国でも異教国でも偉大な人物に出会っているが、その誰にもまして彼には感謝と尊敬の念を抱いている」

クラークにとって人の評価の尺度は、人種でも経歴でもなく、その人の内にある人間性だった。

欧米の列強に対し、日本の自立を守るために官軍との全面戦争を避け、江戸城を明け渡した勝海舟。明治政府が仕掛けた侵略戦争、日清戦争を「大義名分のない戦争」だとして批判した海舟の人間性を彼は敬愛したのだろう。

日本から帰国後、牧師に

1865年、クラークは16歳の時にラトガース大学に入学する。もし、この大学に入っていなかったら、彼と日本との関係は生まれなかった。

18世紀にオランダ改革派の手で作られたこの大学は、当時の日米交流の接点だった。

オランダからアメリカに帰化して幕末の日本にやってきた宣教師・フルベッキが、1866年、この大学に日本人留学生を初めて送り込んだ。

最初の留学生は越前藩主・松平春嶽のブレーンだった開明派の学者・横井小楠の甥たち2人。

大学附属のグラマースクールで日本人留学生たちは英語を学んだ。勝海舟の子・小鹿、岩倉具視の子・具定もここで学んだ。

志半ばにして病に倒れた留学生たちが眠る墓地には、大学でクラークの同級生だったグリフィスが、その優秀さに驚いたという福井出身の日下部太郎の墓もある。こうした日本人留学生たちとの交流が、クラークを日本へといざなかったのかもしれない。

1875(明治8)年、3年半となる日本の滞在から帰国したクラークは、アメリカで牧師になる道を選ぶ。

ユニオン神学校に入学し、帰国から3年後には『日本滞在記』を出版。幻燈を使った講演会などを通して、日本を紹介する活動を続けた。

ラトガース大学のアレキサンダー図書館には、親友・グリフィスが生涯にわたって集めた資料が保管され、“グリフィスコレクション”と呼ばれている。

そのコレクションの中の、クラークがグリフィスに宛てた手紙からクラークの生涯と日本の関係を新たに発見した。

実は帰国後のクラークは、手に入れた農園を「シズオカ」と名付けていたのだ。

クラークの農園に「シズオカ」

「シズオカ農園」はフロリダ州タラハシーにあった。

タラハシーの市街地から北に7,8キロほど行った、なだらかな丘の上からジャクソン湖のほとりまでの広大な土地が「シズオカ農園」。

手紙の束の中にあった農園を「シズオカ」と名付けたことを示す資料

「シズオカ農園」のクラーク邸を写した写真には、「SHIDZUOKA」の文字が家を飾っていた。その前には客たちに交じって談笑するクラークの姿もあった。1901(明治34)年、彼が52歳の時だ。

クラーク邸には「SHIZUOKA」の文字が飾られている

彼はこの地域の酪農のパイオニアの一人となっていた。この地域に初めて蒸気エンジンを導入するなど、北部の農業技術の導入にも熱心だったという。

農園を購入した1883(明治16)年、勝海舟の日記には「アメリカのクラークが養蚕技術者を10人ばかり雇いたいと言ってきた」とある。

フロリダの農業を発展させようと、自分のアイデアや知識を駆使。思い出深い土地、「シズオカ」と名付けることで、彼は日本を忘れることはなかったのだろう。

1903(明治36)年、53歳の年に、この農園からグリフィスに宛てて出した手紙には、彼の日本への思いが綴られている。

そこには「牧師として残りの年月を日本で過ごしたい」「君と私の二人がもう一度日本に行けたらと願っている」と日本への思いを募らせていた。

ポーツマスで教え子と再会

1904(明治37)年、日露戦争が勃発する。

この戦争のさなか、日本政府は中立国のアメリカに当時のルーズベルト大統領のハーバード大学時代の同級生、金子堅太郎を派遣する。

金子は日本への同情を得ようと、アメリカ国民に働きかけた。勝海舟を描いたクラークの著書『勝安房』はこうした状況の中で出版された。

クラークが出版した勝海舟の伝記『勝安房』

クラークは短時間でこの本を書き上げ、慌ただしく出版。冒頭で紹介した『勝安房』は、出版されると最初の6週間に1万部近く売れたという。彼は勝海舟を日本人の代表として描いたこの本を読んでもらうことで、アメリカ人の日本に対する理解と援助を期待したのかもしれない。

出版された『勝安房』の印税、日本に関する講演で得た収入を彼は日本の孤児救済基金につぎ込んだ。

日露戦争は1年半近い戦闘を経て、日露の講和会議が開かれたのは1905(明治38)年8月。アメリカの仲介による講和会議はポーツマスにあるアメリカ海軍基地で開かれた。

日露両国の全権がポーツマスに姿を現したのは8月8日。クラークも会議を見守るため、生まれ故郷・ポーツマスに乗り込んでいた。

この時、クラークは日本時代の懐かしい顔と再会する。講和会議の日本側全権で外務大臣の小村寿太郎、駐米公使の高平小五郎は、クラークの開成時代の教え子だった。

戦争に苦しんだ日本国民の過大な期待を背負い会議に臨んだ小村にとって、交渉は苦難の連続だった。何度も決裂の危機を迎えながら、3週間に渡った会議の末、小村は大幅な譲歩をして講和条約の締結に踏み切った。

戦いに勝ったとはいえ、日本にはもはや戦争を続ける余力がなかったのだ。

そんな会議へのプレッシャーが去った後、クラークは小村や高平と談笑し、昔話に花を咲かせたとグリフィスへの手紙に綴っている。

手紙から読み取った“教育”への情熱

クラークがグリフィスに宛てた手紙から、静岡時代についても発見があった。

クラークとグリフィスが交わした手紙

それは1872(明治5)年10月26日、明治政府初の教育政策「学制」が出され静岡学問所が廃止されてから2カ月近く経った頃、蓮永寺から出した手紙だった。

当時の静岡学問所の様子

そこには混乱する日本の状況にうんざりする一方で、この状況を打開できる人物に一縷の望みを託した手紙を書いたが、返事がないことに対するいら立ちや苦しみ、そして日本の教育への思いなどが書かれていた。

手紙で名前が出された“やんぎもと”とは、当時の文部省・柳本直太郎だと言われている。のちに第3代名古屋市長となった柳本は、1870(明治3)年に皇族で初めてアメリカに留学した、華頂宮親王の随員として渡米。来日前のクラークの手紙にも“やんぎもと”の名前は出てきている。

クラークは明治政府に日本の教育に対する意見書を出すだけでなく、文部省にいた知人にも働きかけていた。

さらに1873(明治6)年6月、静岡県知事の南部広矛に対して、日本の教育方針や学校の制度などの不満を爆発させたという。

当時23歳のクラークが教育に対して深く考え、日本の行く末を案じていたことに驚きしかない。

結局、クラークの意見書が明治政府でどのように扱われたのかを突き止めることはできなかった。

その後の日本の教育変遷

しかし、このあとの日本の教育政策についていくつか触れておきたい。

彼の帰国後の1879(明治12)年、通称「自由教育令」と呼ばれる第一次教育令が出された。「学制」以来の教育政策を否定して地方分権を進め、学務委員、今でいう教育委員を地元の選挙で選ぶことを定めた「自由教育令」には、クラークと同じ教育理念を感じる。

明治12年に出された「自由教育令」

「自由教育令」の起草者は時の文部次官で、田中不二麿。田中のブレーンとなったのはラトガース大学の教授から文部省に招かれたデビッド・マレイだった。

しかし「自由教育令」によって、各地の小学校の就学率は下がってしまう。当時の教育界は、自由教育がいいのか、強制してでも子どもたちを学校に行かせる督促教育がいいのか、その議論で揺れた。

その後、田中が文部省から外され、司法大臣になると同時に督促教育が勝利を収めた。明治政府は、地方の自発的な教育よりも中央の管理、統制によって子どもたちの就学率を高める道を選んだのだ。

1945(昭和20)年、敗戦後の日本の教育は大きく変わる。教育基本法の制定をはじめとする戦後の日本の教育改革に大きく影響を与えたのは、アメリカからの教育使節団によって1946(昭和21)年に作られた報告書だった。

教師各自が画一化されることなく、適当な指導をもとに、それぞれの職務を自由に発展させるためには地方の分権化が必要であると書かれていた。

1948(昭和23)年に公布された教育委員会法は明治の自由教育令と同じように、地域の人々に教育をゆだねようとした。国や地方自治体の干渉を受けないような教育委員会を一般の行政から独立させ、教育委員は住民が選挙で選ぶ公選制とした。

しかし1956(昭和31)年、教育委員は地方自治体の任命制に変わり、学習指導要領の強化、教科書の検定制など教育の主導権は文部省(現・文部科学省)へと移っていった。

伝習所での実験、幻燈による視聴覚教育、相良油田やフロリダで地域社会への貢献をしたクラーク。彼が目指し、実践した教育は、戦後の日本がある時期まで目指した教育ではないか。

地方における教育の大切さを力説し、生徒たちの可能性を信じたクラークの教育思想と今の日本の教育はどうなのだろうか。

ポーツマス講和条約締結から2年後の1907(明治40)年、クラークはニューヨークで58歳の生涯を閉じた。

日本の子どもたちの可能性を信じ、教育を受ける十分で自由な機会を与えたいと願い続けたクラーク。彼の静岡や日本での活躍はあまり知られていない。しかし、彼が明治時代から唱えた教育に対する考えは今でも通じるものがあるかもしれない。

(第1回FNSドキュメンタリー大賞受賞作品『知られざる明治 もう一人のクラーク先生』テレビ静岡・1991年)

2021年、エドワード・ウォーレン・クラークが静岡に来て、150周年を迎えた。シンポジウムが開かれるなど、改めてクラークが明治の日本に対して行った貢献を見直す機会が持たれており、静岡市内にクラークのモニュメントを作る考えもあるという。


 

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