「クラーク」と聞くと思い浮かぶのは、札幌農学校のウィリアム・スミス・クラークだろう。「少年よ、大志を抱け」という名言を残した人物だ。
しかし、明治時代の日本にはもう一人の「クラーク」がいた。2021年、彼が静岡に来て150年を迎えた。
フジテレビ系列28局が長く続けてきた「FNSドキュメンタリー大賞」が第30回を迎えた。FNS28局がそれぞれの視点で切り取った日本の断面を各局がドキュメンタリー形式で発表。今回は第1回(1991年)に大賞を受賞したテレビ静岡の「知られざる明治 もう一人のクラーク先生」を掲載する。
幕末維新の動乱を経たばかりの日本で教育に情熱を注いだ一人のアメリカ人教師。前編では彼が教育についてどう考え、日本の教育をどのように変えていこうとしたのか探っていく。
(記事内の情報・数字は放送当時のまま記載しています)
アメリカから静岡へ来た青年教師
1871(明治4)年12月、当時の日本で最高峰の教授陣を揃えた静岡学問所に着任した、お雇いアメリカ人教師エドワード・ウォーレン・クラーク。
この記事の画像(13枚)1カ月近くの長い船旅を経て横浜港に上陸した当時22歳の彼は、燃えるような情熱と共に不安も感じていた。
その不安は横浜滞在中、思いがけない形で的中する。彼の雇用契約書案をめぐってのことだった。
静岡県の県史にその雇用契約書案が残されている。雇用は期間が3年、給料は月300ドルだったが、雇用契約書案の中に絶対に容認できない条件が盛り込まれていた。
それはキリスト教の布教禁止で、明治政府が付け加えた案件だった。
彼は来日するためにお金を使い切ってしまったため、契約を成立させないと経済面は逼迫してしまう。しかし、赴任期間の間ずっと「キリスト教の布教禁止」は納得できなかった。
当時の日本はまだキリシタン禁制の高札が町の辻々に立っている時代。にもかかわらず、クラークの抗議からわずか3日でキリスト教禁止条項は撤回された。
最初の障害に打ち勝った彼は、大いに自信を深めた。
教育者として日本での人材育成に励む
明治維新の静岡には政権の座を追われた旧幕府、徳川家が家臣ともども移住してきた。クラークの赴任した静岡学問所は、その徳川家が静岡に移ってすぐ1868(明治元)年につくった学校だ。
幕末の江戸の最高学府、昌平坂学問所、開成所から当時の日本を代表する漢学者、洋学者が静岡に集まり教鞭を執った。そこは武士だけでなく、一般の庶民にも門戸が開かれた。
当時の徳川家にあって、西洋の学問の必要性を痛切に感じていた勝海舟。明治政府からはまだ警戒の目で見られていた徳川家で、外国人教師を招くだけの力を持っていた。
海舟は当時、福井に来ていたアメリカ人教師ウィリアム・E・グリフィスに学問所の教師の人選を頼んだ。そして、選ばれたのがクラークだった。
クラークは当時の日本人や日本の子どもたちについて、たとえ身なりが貧しくても世界一礼儀正しい国民であると驚いている。加えて両親や教師など目上の者には従順であり、手に負えないことがなく、勉強熱心だと称賛している。
一方で、大声で読み上げるだけの機械的に暗記する勉強法などには疑問を呈していた。
静岡県はクラークの教育の場として、学問所附属の伝習所を設立。実験器具や薬品類を使い、日本の若者たちに西洋の科学を広めた。
彼の伝習所では当時最も新しい実験器具を使い、多くの日本人たちを驚かせた。初めに生徒たちに体験させることで好奇心を抱かせ、その現象の意味を生徒に考えさせる。彼の著書『日本滞在記』からはそんな授業の風景が想像できた。
ユークリッドの『原論』を日本語に訳したものが1875(明治8)年、『幾何学原礎』として静岡で出版された。表紙の裏には“クラーク先生口述”と書かれている。彼の授業をもとに、生徒たちが訳したこの本は、ユーグリッドの偉大な書物『原論』の初めての日本語訳だった。
得た知識を日本で生かせることに誇りを抱いたクラーク
来日当時の静岡学問所は、日本各地の中でも稀にみる教育環境を持っていたのだろう。
静岡に親友・クラークを訪ねたグリフィスは、勤めていた福井と比べたのか、こんなことを日記に残していた。
「クラークは教養のある紳士、有名な人物、教育を受けた知識のある協力者などがいて、非常に運がいい」
クラークの友となった同僚の中村敬宇(正直)は、イギリスに留学し、学問所の一頭教諭に。この時期、彼は静岡で『西国立志編』『自由之理』の2冊の英書を翻訳・出版している。この2冊は福沢諭吉の『学問のすすめ』と同じように明治時代のベストセラーとなった。
静岡は東京と並んでこの時代の学問・文化の先進地だった。
クラークの宿舎となった日蓮宗蓮永寺(静岡市)。勝海舟の母親と妹の墓地があり、海舟ゆかりの地でもある。海舟は外国人を敵視する武士から彼を守るため、寺の門に護衛を貼り付けた。
寺にある彼の部屋には生徒たちもたびたび訪れ、そこでキリスト教について話したこともあるという。
明治時代、キリスト教の布教が盛んだった地域がいくつかあり、「横浜バンド」「熊本バンド」と並んで、「静岡バンド」と呼ばれたが、その発祥は皮肉にもこの仏教の寺院だった。
1872(明治5)年の春、クラークの元に一升瓶にして2本分の油が分析のために持ち込まれた。御前崎近くの静岡県相良町(当時・浜松県海老江村)からの使者だった。
この油は当初、日本人の技師たちによって「松の油」だと鑑定された。しかし、クラークはそれを「石油」と判断し、彼のお墨付きによって掘削が始まり、「相良油田」は日本の太平洋側で唯一の油田として昭和初期まで栄えた。
クラークは地域の人からいろいろな依頼を受けたと考えられる。医者の代わりに子どもたちに種痘を施したりもしている。自分の身に着けた学問の成果が、静岡という地で役に立ったことを誇らしく思っていたのだろう。『日本滞在記』にもそうした喜びは記されていた。
しかし、彼の仕事であった教育については、幸せな日々が長くは続かなかった。
明治政府に“意見書”を提出したクラーク
1872(明治5)年9月、明治政府初となる総合的な教育政策「学制」が公布される。全国に小学校を設置することを定めた政策だが、明治政府のその他の国内政策同様に、中央集権を目指し、すべての教育行政を文部省が管理しようというものだった。
「学制」と同時に出された文部省の第十三号布達は、維新以来、全国の各藩各県がそれぞれの地域で作り上げてきた学校を廃止する通達だった。
静岡学問所も廃止の対象となり、中村敬宇(正直)をはじめとする教師たちや優秀な生徒たちが東京へと連れ去られた。
クラークは同年、明治政府の教育政策に反対した意見書を出した。教育を東京だけに集中させるのはよくないこと、東京を発展させるためには国内各地の教育も必要なことであり、明治政府の方針は間違っていると訴えた。
この意見書はこの時から55年を経て、「新旧時代」という雑誌の1927(昭和2)年2月号に掲載された。紹介者は大正デモクラシーの指導的思想家、吉野作造だった。
吉野は古本屋で偶然手に入れた雑文綴りこみの写本の中から、この意見書の写しを見つけたという。クラークが意見書を出してから半世紀後に吉野が発見していなかったら、この意見書を目にすることはなかっただろう。
東京都立大学・山住正己教授(※放送当時)は、クラークの意見書と吉野の発見についてこう考えた。
「中央集権の方向で日本の学校教育・体制をつくろうとした文部省の学制がありますが、(意見書が書かれたのは)それが公布された直後。その時期に早くも日本の教育体制が一つの方向に、中央集権の方向に向かおうとしていることに危惧を抱いた人がいたということを、吉野は注目したと思います。学制が出された頃、日本人で積極的に中央集権ではまずい、と地方や小都市その他で独自の教育を説いた人はいなかった。これは大正デモクラシーのリーダーであった吉野にとって興味のあるものであったと思います」
クラークはこの意見書で地域を顧みない、中央集権の教育政策に反対する。そして、目が出たばかりで摘み取ってしまうような、促成栽培の人材育成にも反対を唱えた。
しかし、彼の教育に対する考えは、明治政府の政策と相いれなかった。
静岡を去り、東京・開成学校へ
クラークの静岡での生活は危険も伴い、カモ猟で狙撃を受けたこともあった。攘夷こそ正義とされた時代からわずか数年しか経ってない時代の中、外国人への敵意は静岡でも消え去ったわけではなかった。
『日本滞在記』によると勝海舟や大久保一翁から住宅の建築を提案されたことを機に、当時、荒廃していた城跡に洋館を建てることを決めた。
日本の大工たちとの共同事業で作り上げたクラーク邸は1872(明治5)年の暮れに完成。その家は地域の人たちにも積極的に開放し、欧米の新しい知識を広める活動の場となった。
すでに静岡学問所は廃止され、私学として存続を許された伝習所で彼は教えていた。狙撃という危険な目にあったにもかかわらず、家に閉じこもることなく、家も心も地域の人たちに開いた。
しかし残された伝習所も静岡学問所時代のような活気を取り戻すことはなかった。
1873(明治6)年12月、クラークは静岡での2年間の生活に別れを告げ、東京大学の前身、開成学校へと移った。
意見書まで出したにも関わらず、なぜ開成学校に移ったのか。静岡の伝習所は後任にカナダ人教師を迎えたが、その後の伝習所や彼の考えを知る資料は残されていない。
クラーク赴任当時、開成学校はすでに4人のアメリカ人教師がいた。福井から開成学校に来た親友・グリフィスもその中の一人。クラークは東京でも3つのバイブルクラスを開いたり、また明治天皇を一目見ておきたいという好奇心から、宮中での実体幻燈会を開くなど、活発に動き回った。
静岡時代には科学、物理、幾何学など西洋の学問全般を教えていた彼が、ここでは科学の専門教師だった。たが、静岡で日本の教育を憂えた彼が開成学校でどんな教育をしたのか。静岡時代とは違い、開成学校での授業や教育についてほとんど書き残していない。
日本政府に反対を唱えた青年教師・クラーク。若々しい情熱で、専門の理化学のみならず英語・フランス語、公的には禁教とされていたキリスト教を静岡の前途有為の若者たちに伝え、日本の近代化と日米親善に大きな役割を果たした。
後編ではそんな彼の信念はどこで、どのように形成されたのか。故郷アメリカへ向かい、彼の信条、そしてアメリカに帰国後の人生を追う。
(第1回FNSドキュメンタリー大賞受賞作品『知られざる明治 もう一人のクラーク先生』テレビ静岡)