2001年9月、福井県の栗田幸雄知事は福井空港の拡張整備計画の凍結を表明。計画浮上から17年目のことだった。

フジテレビ系列28局が1992年から続けてきた「FNSドキュメンタリー大賞」が今年で第30回を迎えた。FNS28局がそれぞれの視点で切り取った日本の断面を、各局がドキュメンタリー形式で発表。

今回は第11回(2003年)に大賞を受賞した福井テレビの「通り過ぎた17年~空港拡張の悲哀~」を掲載する。

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福井空港の拡張計画をめぐる17年の歳月は、地元住民に何を残したのだろうか。計画を推し進めようとした行政の思惑や背景、地方における公共事業の在り方を考える。

前編では空港建設を進めたい県の工作により、賛成派と反対派で分裂していく住民たちや行政の思惑を追う。

(※記事内の情報・数字は放送当時のまま記載しています)

行政の姿勢に住民は反発

1985年に発表された福井空港の拡張計画。総工費780億円をかけて新滑走路を建設し、ジェット便の離着陸を可能にするという計画に、地元住民は一斉に反発。全員が参加する反対運動が展開された。

建設予定地の福井空港は、すでに1,200メートルの滑走路を持つ。当時定期便は全く就航していなかったこの空港で計画された長さ2,000メートルの新滑走路は、9地区に渡って140人の地権者がいた。

反対運動は地権を持たない者にも広がる。新滑走路がまたがることになる坂井町(現・坂井市)の反対念書には、200世帯が判を押していた。そこには「絶対」という言葉が連なり、県に対する不信の強さがにじみ出ていた。

住民は空港完成後の騒音問題にも神経をとがらせていたが、「行政の姿勢」こそが最大の反発理由だった。県は一体、何をしたのだろうか。

福井空港

坂井町反対同盟の4代目委員長は、住民軽視こそがすべての元凶だったと言う。

「地元の同意は後回しにして、やった行動は国の予算獲得と町議会の賛成を獲得することに終始していた。そこに住んでいる地権者、地域の住民を全く無視してやったことが、こういう事態になったという最大の要因」

県は計画発表後、町議会を説得して建設賛成を表明させることを優先し、住民への説明を後回しにした。

航空法によれば、自治体は地権者の同意さえあれば空港の調査・測量に踏み切れる。しかし県・国は、集落として空港拡張に同意するという「総論同意」にこだわった。それは、住民の過半数の賛成を得るというハードルの高いものだった。

その裏にあったのは「成田空港闘争」だ(https://www.fnn.jp/articles/-/6468)。長引く成田闘争に懲りた国は、地権者だけでなく、周辺住民に対しても神経質になっていた。

県が行った建設促進キャンペーン

しかし推進パレードで目を引いたのは、新空港建設で利益を得る運輸・建設業関係者ばかりだった。一方、反対同盟も引く気配を見せず、1991年6月に運輸省(現・国土交通省)に乗り込んだ。

運輸省が反対派住民と会うことは滅多にないが、反対同盟はあらゆる伝手を使い面会にこぎつけ、陳情書を提出。運輸省が即答するわけもなかったが、反対同盟の力と決意を示す成果があった。

県と住民が全くすり寄る気配を見せないまま、数年が経過。深刻な膠着状態を打ち破るために、当時の栗田県知事が動き出した。

行政の工作で「賛成」に傾く住民たち

住民へ理解を求める栗田知事

1992年1月、栗田知事は建設予定地を訪れ、坂井町の一戸一戸を回り、空港建設への理解を求めた。

この年、県は国から空港建設の調査予算を獲得していたが、このままでは測量さえも行えない状態だった。異例ともいえる陣頭指揮を知事が執ったが、固く門を閉ざす家もあった。

「住民の皆さんは騒音を非常に心配しておられますので、騒音について県も万全を尽くすということで、そういうことを聞いてもらう機会を早く持たせてほしい。そんなこともお願いしていきたい」

知事が真正面から説得を続ける一方、県はもう一つの作戦を密かに展開していた。それは、反対住民を切り崩すための饗応・接待だった。

市民団体が入手した請求書

その工作の証拠を密かに入手したのは、福井県の市民団体・代表だ。

「1年に100数十件飲み食いしています。3日に1回以上。平成元年からあって、私らが調べたのは平成5、6年になってから。平成元年にまでさかのぼって調べた」

公文書公開請求で取り寄せた請求書の発行者は福井県内のレストランや割烹。全部で776枚を数え、1989年から6年間の支払総額は5300万円にまで上っている。

3代目の反対同盟委員長も県の誘いを断固拒否し続けたが、住民から接待の実情を聞いていた。「中にはコンパニオンを呼んでカラオケでどんどんやっているようなことも聞いています。飲み食いを重ねると、どうしても反対できんような立場にずるずるとなるといったような状況やね」と語った。

接待攻勢は成果をあげ、一枚岩だった反対同盟は次第に切り崩されていった。反対同盟結成から8年が過ぎた1992年、9地区のうち5地区は賛成派が上回り、県に総論同意書を提出。残るは4地区になっていた。

県はさらに懐柔策を用意し、計画に同意することを条件とした農機具の購入補助などを行った。露骨な懐柔策の象徴と言われたのは、坂井町にある道路だった。

舗装された道路の先は砂利道のまま

建設賛成地区の道路は舗装され、反対を続けている地区の道路は砂利道のまま。その境目がはっきりとわかる。こうした線引きは個人単位にも及び、空港建設に同意した集落とだけ環境整備を協議し、反対派の所有地では側溝に蓋すら取り付けなかった。

住民たちはきょうだい、親戚のように付き合ってきたが、いがみ合い、言い争いが頻発するようになる。対立を深める賛成派と反対派、やがてそれは信じられない悪意へと発展していった。

反対運動が招いた住民たちの分断

空港建設反対の地区で農業を営んでいたAさんは、反対同盟の中心的な役割を果たしてきた。

1994年に住民に推される形で反対同盟の委員長に就任したAさんは、その後5年に渡って先頭に立ち反対運動を引っ張っていたが、その頃から自宅に差出人不明の手紙が届くようになった。

内容は次第にエスカレートしていき、覚えのない商品が届くことや、金融会社からローンの申し込みを確認する書類が舞い込んだことも。その中でどうしても処分できなかった手紙を手に取り、涙を流した。

Aさんの妻が風邪をこじらせて入院した3週間後に、容体が急変して危篤状態に陥った。Aさんが病院へ駆けつけようとしたその時に、この手紙が届いたという。

Aさんのもとに届けられた手紙

かあちゃんの病気心配のことです。

命をかけてまで強い反対はやめた方がいいと思います。村の人も委員長の家のことは陰ではあまり同情していません。

あたりまえや、今に奥さんの命がとられるのや、と言っている人もいます。

都合が悪くなるとみんなが逃げてしまうのが今の世の中です。

其の上、あいつはあほやったと言われるだけですから。

不幸天罰の神より

38年間連れ添った妻は、手紙が届いた3日後に亡くなった。Aさんは手紙の差出人を探そうともしなかった。それを突き止めても、以前のような仲の良い村が戻ってくることがないからだ。

空港は本当に必要なのか?

1985年に発表された空港拡張計画から11年が過ぎた1996年、さらに1地区が賛成に転じ、Aさんら反対派は苦境に立たされた。

日本中が不良債権の処理に騒然としていたこの年、Aさんは初めて栗田知事と対話した際、「もう一度改めて検討するべき時期ではないか」と投げかけた。

そもそも空港は必要なのか。誰もが見過ごしてきたこの問題に知事は、「話し合いをすることで双方の接点を見出していきたい」と述べた。

Aさんは、空港の存在意義そのものに強い疑念を抱いていた。

1966年に開設した福井空港は、当時東京便は1日に1便だけだったが、着実に利用者を増やし2年後には2便に増便された。ところが1973年、石川県・小松空港がジェット化を果たした。

小松空港は福井市内から車で約50分の距離にあり、次々と東京便を増便し、利便性は一気に高まった。強力なライバルを前に、福井空港は定期便を休止せざるを得なかったという。

福井空港の利用者はグライダーと小型機だけに

こうして福井空港の利用は同好会のグライダーと小型機だけとなった。「本当に空港は必要なのか」という問いの答えを導き出す例が、佐賀空港の事例だ。

後編では昭和から平成にかけて変化の激しい中、変わらず夢を見続けた「空港があれば豊かになる」という県の甘さと、地方空港に起きた現象から、空港建設問題がどんな結末を迎えたのかに迫っていく。
 

(第11回FNSドキュメンタリー大賞『通り過ぎた17年~空港拡張の悲哀~』福井テレビ・2003年)

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