日本では戦後、進駐したアメリカ兵と日本人女性との間に、多くの子が産まれた。そのひとりであるマツモトツヨシさんは親の顔も知らぬまま、小学校の頃にアメリカに渡った。33年後、46歳となったツヨシさんは自分の半生をたどるため、幼少期を過ごした養護施設に帰ってきた。

フジテレビ系列28局が1992年から続けてきた「FNSドキュメンタリー大賞」が今年で第30回を迎えた。FNS28局がそれぞれの視点で切り取った日本の断面を、各局がドキュメンタリー形式で発表。

今回は第3回(1994年)に大賞を受賞したテレビ長崎の「母の肖像 ~アメリカ人ツヨシの戦後~」を掲載する。

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前編では、養子としてアメリカに渡ったツヨシさんの苦悩と葛藤の半生を追った。後編は、亡くなった母・八重子さんの思い、幼少期を過ごした地域との再会を通じて、ツヨシさんが自分の人生を見つめ直す姿を追う。

(※記事内の情報・数字・言葉の一部は放送当時のまま掲載しています)

“家”に帰ったことを実感するツヨシさん

1947年(昭和22年)、アメリカ兵と日本人女性との間に生まれた、マツモトツヨシさん。長崎県大村市の児童養護施設「大村子供の家」に預けられ、養子としてアメリカに渡った。それから33年後、自分のルーツを探るため妻と来日。歓迎会が開かれ、ツヨシさんは“家”に戻ってきたことを実感していた。

「以前いろんな人たちが“母に会いに家に帰る”とか、“父に会いに帰る”とか、“愛する人のもとに帰る”などと言っていましたが、私にはその気持ちが分かりませんでした。今回生まれて初めて、“両親に会いに家に帰る”という気持ちが分かりました。今ようやくその気持ちが分かってとても落ち着いています」

骨格標本になった母の遺骨と対面

翌日には大学の医学部で母親に対面する。母・八重子さんは1980年(昭和55年)に長崎市内の病院で亡くなったが、遺体は引き取り手がなく、長崎大学医学部に献体され、骨格標本となっている。ツヨシさんは2歳の頃には施設に預けられたこともあり、母の面影の記憶はない。

物心ついてから初めて母に会う日だ。大学を訪れたツヨシさん夫婦は、改めて骨が八重子さんであるという説明を受けた。

霊安室では、棺に納められた母の遺骨が待っていた。ツヨシさんの46年間の人生で母に会うことは夢だった。その一方で、母が死んでいる現実に直面しなければならない。悲しみと喜びが一緒になってあふれ、ツヨシさんの目には涙が浮かんだ。自然と「46年…どうぞ安らかに…。会いたかった。ずっと夢だった」という言葉がこぼれた。

「母はここで私がくるのをまるで待っていたかのようだ。今きっと母は喜んでいるに違いない。私はこれまでずっと母に触れたいと夢みてきました。霊安室で母をみたとき、私は骨にすがりついて、抱きしめたいと思いました。私の一生の夢がついにかないました」

標本になっていた骨は火葬に付され、母の骨はようやく息子の手で拾われた。八重子さんの葬式も執り行われ、参列者は少なくひっそりとしたものだが、心がこもっていた。

「養子にやりたくない」明かされた母の思い

どうしても知っておかなければならないこともある。ツヨシさんを養子に出すことに対する八重子さんの気持ちだ。それは施設の当時の保母・古賀和子さんが胸に秘めていた。

ツヨシさんがアメリカに行った年の夏、八重子さんは打ちひしがれた様子で「大村子供の家」を訪ね、「ツヨシを養子にやりたくなかった」と言って泣き崩れたという。このことは施設の手前、誰にも言えないことだった。古賀さんは意を決しツヨシさんに伝えた。

「私がね(ツヨシさんに)伝えないと、お母さんの愛情を伝えないと。すまないと私は思ってね。お母さんがやりたくないって。アメリカに行く時に(ツヨシさんを)やりたくないやりたくないとお母さんは言われたんだから」

真相を伝えられたツヨシさんが発した言葉は、穏やかなものだった。

「母も私と同じように悩み、苦しみつづけたのだと思います。仮に母が望んで私を養子に出したとしても、私には母のその時の決心が理解できます。もし私が当時、母と同じ立場に置かれたら、私も母と同じ決断をしたと思います」

ツヨシさんの心にわずかながら、わだかまりとして残っていたものが消えていた。母親は自分をアメリカにやりたくなかったのだ。この事実でこれまでのつらい日々が救われる。

「お母さん、ただいま!」見つけた自分のルーツ

ツヨシさん夫婦は滞在期間中、施設の記録にあった古い住所を頼りに、長崎で住んでいた家を探しに行った。長崎市東山町、ツヨシさんが生まれたのはこの辺りだ。

母と祖母は、戦後すぐに中国から引き揚げて長崎市に移り住み、ツヨシさんが生まれた。そして祖母が亡くなった後、母は2歳のツヨシさんを施設に預けたのだ。

途中、階段を見つけたツヨシさんは「ここを歩いていた母の姿が私には見えるようだ。何ともいえない素晴らしい気持ちだ。母が歩いた階段を今私もこうして歩いている」と話した。

聞き込みを続けると、ツヨシさん一家を知っている人がいた。場所を教えてもらい、一緒に向かうと古い家があった。一部が手直しされているが、建物の全体はそのままだ。

これが住んでいた家。ツヨシさんは「お母さん、ただいま!」といい、笑みを浮かべた。近隣の人と昔のことも語り合い、遠い過去に戻ったような感じを覚えていた。一歩一歩地面を踏みしめるように歩くツヨシさん。

「44年前に私はここを歩いていた。ようやく分かってきた。私はこの場所で生まれて育ったんだ。私の人生で謎だったことが次第に明らかになってきた。祖母も母も私もここにいたんだ…」

母・八重子さんは物静かで髪の長い、きれいな人だったという。しかし手を尽くしても写真がなかった。諦めかけていた頃、昔、保母をしていた人の娘が八重子さんの写真を見たことがあるという情報が入った。ここが最後の頼みの綱。翌日にはもう帰らなければならない。

取り出されたアルバムには、八重子さんの写真が残っていた。裏には「27才、松本ヤエ子」の文字がはっきりと記されていた。初めて見る母の面影は、娘に伝わっていた。

ツヨシさんは安堵の表情を浮かべ、晴れやかな表情でこのように話した。

「心が落ち着きました。これでやっとゆっくり眠れます。これまで、母はどんな人だろうといろいろ想像してきました。今、写真を手にしたことでもう想像しなくてよくなりました」

自分探しの旅を終えても、人生は続く

久しぶりの日本で過ごした10日あまりの日々で、ツヨシさんは生まれ変わった。大村子供の家で開かれた宴では、八重子さんの写真が見つかったことを喜びつつ、祝杯をあげた。

ツヨシさんは自分の半生をたどり直すには妻の支えが必要だったといい、くじけそうになった時は励まされてきたという。宴では感謝とともに、これからの人生への希望を語った。

「出会った時、妻は『あなたの人生を聞かせて』と私に言いました。でも一緒に私の過去をふりかえるとは妻も思っていなかったはずです。私のこれまでの半生は喜びと悲しみが入りまじったものでした。でもこれからは幸せだけの半生となると思います」

帰国の日。ツヨシさんは子どもたちにさよならを伝えに行った。小さな子どもを抱きかかえるツヨシさん。この子と同じような年の頃に施設に預けられ、10年後には日本を離れた。

失われた過去の自分探しの旅が終わった。車に乗り込んだツヨシさんは、窓から身を乗り出しながら「バイバイ!ありがとう!どうもありがとう!また戻ってくるからね」と声を上げ、笑顔で子どもたちに手を振る。

太平洋戦争が終わり、日本ではアメリカ兵との間に、日米のルーツを持つ子が生まれ、大人たちの思惑をよそに多くの子が養子になってアメリカにもらわれた。国にはその数の統計すらない。

ツヨシさんは最後にふと、こうつぶやいた。

「ずっとここにいたい。行きたくない」

時代に翻弄されるのはいつも、八重子さんやツヨシさんのような何もない人たちなのだ。

(第3回FNSドキュメンタリー大賞『母の肖像 ~アメリカ人ツヨシの戦後~』テレビ長崎・1994年)

テレビ長崎
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