12月8日、太平洋戦争のきっかけとなった真珠湾攻撃から80年の節目を迎えた。
当時、攻撃機に搭乗し、戦争に向かった石川・能登町出身の男性がいる。その貴重な証言をもとに、あらためて戦争について考える。

吉岡政光さん:
ハワイ列島の真珠湾西側の方の海岸。目標は戦艦・航空母艦。もう黒くて、よく見えないんですよ。煙が出ていて。もしかしたら、平常心よりも落ち着いていたような気がします

真珠湾攻撃について語る吉岡政光さん
真珠湾攻撃について語る吉岡政光さん
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吉岡政光さん:
いつ死ぬかとか思ったら戦争できませんよ…

艦長の言葉に「ここで死ねということか」

東京・足立区。ふるさとから来た取材班を、1人の男性が出迎えてくれた。
103歳の吉岡政光さんは、真珠湾攻撃に参加した攻撃機の元搭乗員だ。

103歳の吉岡政光さん
103歳の吉岡政光さん

吉岡政光さん:
耳、全然ダメなんです。テレビでも聞こえないんですよ。もう年ですからね、しょうがない…

(Q.1人で住んでいるんですか?)
吉岡政光さん:

はい、1人でやっています

吉岡さんは大正7年(1918年)、石川・能登町の小木港近くに生まれた。

吉岡政光さん:
男は、私が長男で…。父親で母親で、これがおばあさん

吉岡政光さん:
あんまり子どもの頃のこと覚えてないんですが、海がきれいだったことを覚えています。魚がいっぱい泳いでいましてね

吉岡さんの父親は大工だったが、後は継がず、18歳の時に広島の呉海兵団に入団した。
はじめは戦闘機などの整備を担当していたが、21歳の時に航空母艦「蒼龍」の乗組員に。
そこで、当時 最新型の爆撃機で訓練を重ねた。

迎えた1941年に艦上攻撃隊に配属された吉岡さんは、航空機から魚雷を落とす任務に就いた。

吉岡政光さん:
私は、座席が3人乗りの真ん中。ちょうどその付近が魚雷の真ん中になる。ワイヤーのようなもので(魚雷を)くくり付けてあるんですが、それを引っ張ると落ちるようになっている。(魚雷を)高い所から落とすと、曲線を描いてドボンと(海底)深く、ずっと入っていってしまう。海上から深くならないように、浅く海底にぶつからないようにする訓練をやっていた

模型を使って訓練の様子を語る吉岡さん
模型を使って訓練の様子を語る吉岡さん

浅瀬が多い真珠湾で戦艦に魚雷を命中させるための訓練が、日々繰り返された。
しかし吉岡さんたちには、乗っている空母がどこに向かっているのか知らされていなかった。

吉岡政光さん:
(空母の)通路にずっと重油タンクがあった。通路に重油タンクを積んでいるのは初めて見るんですよ。もしかしたら寒い方に行くんだなって話をしていたら、1人の乗組員が「2~3日前に半ズボンの作業服を積んだよ」なんて言っているから、「寒い所に行くのか、暑い所に行くのか分からないな」という話をしていた

その年の11月末、急きょ集められた吉岡さんたちに艦長から告げられたのは…

「暴慢不遜ナル宿敵米国二対シ愈々十二月八日ヲ期シテ開戦セラレントシ」

「十年兵ヲ養フは只一日之を用ヒンガ為ナルヲ想起シ」

吉岡政光さん:
これはもう、ここで死ねということだなと

真珠湾攻撃「怖いとか死ぬと思わなかった」

1941年12月8日、攻撃が開始された。

吉岡政光さん:
雲が厚くて、2,500メートル付近からずっと雲があって、上が黒くて、もう少し色が薄いところがあって、その真ん中に白い線が見える。これは、真珠湾に来たんだなとすぐわかった

吉岡政光さん:
すぐ「全軍突撃せよ」って信号が入った

第1次攻撃隊として出撃した吉岡さんは、真珠湾中央にあるフォード島の西側を攻撃することになっていた。

吉岡政光さん:
煙がいっぱいですよ、黒い煙が。よく見ると、西側の方に戦艦が1隻と細かい船がいるだけでした。あの戦艦にしようと

標的の戦艦を決め、突撃した吉岡さんだが、近づくにつれ、ある違和感を感じた。

吉岡政光さん:
戦艦の作りが簡単なように見えた。「ユタ」という名前の標的艦があるから、それと間違えないようにと聞いてきていて。ちょっと見たら、これユタではないかなと思ったが、思った瞬間に「よーいテっ」て(合図が来た)

訓練通り魚雷を投下した吉岡さん。しかし、撃沈したのは戦艦ではなく、吉岡さんの予想通り、訓練などで使う標的艦「ユタ」だった。

吉岡政光さん:
大砲の砲頭に(目印の)星が付いていた。これは間違いなくユタだったなと思ったんですけど、もうあとの祭りで…

船が沈むのを最後まで見ていた吉岡さん。気がつくと、もう真珠湾の出口だった。

吉岡政光さん:
帰ってくるまでですね、下から撃ってくるということを忘れていたんですね。もう魚雷を落としたいということばかり考えていた

(Q.怖いなと思わなかった?)
吉岡政光さん:

怖いとかですね、死ぬとかって全然思ってないんですよ。平常心ですよ。もしかしたら、平常心よりも落ち着いていた気がする

こうして始まった太平洋戦争。吉岡さんはその後、蒼龍から離れ、各地の部隊を転々としたあと終戦を迎えた。

戦争体験を語る理由…「あの光景を伝えなければ」

戦後は、海上自衛隊や民間企業に就職し、3人と子宝と5人の孫に恵まれた。
しかし、戦後70年以上、吉岡さんが戦争について語ることはなかった。

吉岡政光さん:
戦争の話をしていると、だんだん勇ましくなってきて、本当の気持ちではなくて、だんだんと自分は良いことをしたんだというような気持ちになってくる気がして(話さなかった)

抱え続けた葛藤。
100歳を超え、吉岡さんは、ようやく気持ちに整理がつき始めたという。

吉岡政光さん:
若い人に(戦争を)分かってもらえたら、少しでもためになるかなと最近思い始めて。それには、本当の事を話しておけばいいと思いまして

真珠湾攻撃から2021年で80年。

あの日のことを知る人は年々、少なくなっている。だからこそ、あの光景を伝えなければ…。
吉岡さんは、脳裏に焼き付いたつらい記憶をたどり、2時間も話をしてくれた。

吉岡政光さん:
「人を殺せ」って命令は、受けたことはない。軍艦やれとか、飛行場やれとか、あの飛行機を壊せとか、工場を壊せとか。だけど、それを動かしている人間はいっぱいいるはずですよ。それを思ったら、戦争というものはやっちゃいけないもの

吉岡政光さん:
この地球上に生まれてきた以上は、天命を全うして、十分楽しんで一生を終わりたいと、みんなそう思っている

(石川テレビ)

石川テレビ
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