東日本大震災から今年で10年が経った。

あの日からアスリートたちは震災とどう向き合ってきたのか。「希 HOPE!スポーツがつなぐ未来~3.11あの日から10年~」(3月13日放送、フジテレビ系)で、ナビゲーターを務めたゴルフ・宮里藍さんと元サッカー日本代表の内田篤人さんが、東日本大震災を振り返った。

震災当時を振り返る

震災当時は宮里さんがアメリカ、内田さんはドイツと、それぞれ海外を拠点にしていた。

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「ドイツにいて、次の日に試合だったので、遠征先のホテルか練習場でニュースを見て。最初はあまり分からなかったんですけど、チームメイトが寄ってきて『日本、大丈夫か?』って。全部のニュースを見せてもらって。津波とか家が崩れている映像を見て、ショックを受けました」(内田)

「何をしたらいいのかかなり考えたし、迷った」と振り返る内田さんは、翌日3月12日にもピッチに立ち続け、試合後には「少しでも多くの命が救われますように。共に生きよう!」と日本へメッセージを送った。

「メッセージを送ること自体、合っているのか難しかったです。日本の状況がはっきり分からない中でメッセージを出すことは言葉を選ぶことも含めて、かなり迷いました。
ただ、アスリートとして海外でプレーしている自分が何かメッセージを出すことで、日本の人の気持ちが動いてほしいとも思ったし、もしかしたらドイツも手助けしてくれるかもしれないと思った」と明かし、内田さんは行動を起こしたという。

宮里さんもアスリートとしての葛藤があったと、当時を振り返った。

「あまりにも映像の威力がすごくて、実感が湧きませんでした。『日本で本当に起きているの?』と。どうしたらいいのだろう…という気持ちになりました。
ですが、試合は毎週あるし、自分のコンディションを整えながら、何をすればいいんだって揺れ動きました」(宮里)

しかし、だからこそ、改めて「私は日本人」感じるきっかけにもなったという。

「私は12年アメリカにいたんですが、住めば住むほど“自分が日本人”と実感できて。ゴルフはオリンピック競技でもないし、W杯もあったりなかったり。日本を代表しているというよりは個人で行っているという感覚が強くて。でも、有事の時に日本に何かしたいという気持ちが自然と湧いてきた。勝手に日本を代表している気持ちになりました。

当時、日本人は数名しかアメリカツアーに参戦していなくて、その選手たちと一緒に何かできないか、アクションを起こせないか、と話した記憶はあります」(宮里)

海外の支援活動に感謝

宮里さんは「海外の人の反応やアクションが早いなと思って」と、日本に対して援助活動などの行動を起こす早さにも驚いたことを明かす。

内田さんは宮里さんの言葉に頷き、「『まず日本に帰れ。試合やらなくてもいいから、家族に会いに行け』と言われたんですけど、『僕はここに残って試合をすることが答えだと思っています』と言いました。試合に出る、出ない別として。
サポートしてくれるのは早いですね。あと、すっごく心配してくれる。自分のことのように。ありがたかったです」と当時を振り返る。

そして、「メッセージを書いたTシャツをドイツでオークションに出したいと言われて、そのまま渡したんですけど、そのTシャツがどこにあるのか分かっていない。日本にあるらしいんですけど…」と話すと、宮里さんは「それ、気になりますね」と笑った。

2011年7月になでしこJAPANが、日本で史上初の女子W杯優勝を成し遂げた。この優勝が、宮里さんの2011年7月のエビアンマスターズの優勝につながったという。

「大会で毎年チャリティーをしているんですけど、『日本に対してやりましょう』と早い段階で考えてくださって。すごくありがたかったし、周りの選手も『どこに寄付したらいいの?』と聞いてくれたり。
フランスでの表彰式の中でも“日本のことを考えましょう”というシーンもあって、人って温かいな、国を越えてサポートしてくれるんだと胸打たれて、感情的になりました」(宮里)

子どもたちへの思い

「震災で被災した子どもたちには、心配事やこの先のことはあまり考えてほしくない。のちのち超えていかなければならないことがあると思うので。子どもたちには自由に、未来のことを考えて、これからの人生の不安を払しょくしてのびのび生活してほしい。

2011年の夏にサッカーの関係で岩手・大船渡に行きまして、一緒にサッカーをした子どもたちは本当に元気。笑顔でサッカーをしていて、そんな子どもたちに『がんばれ』って言えないですよね。ツラいところから立ち直ろうともう頑張っているので、一緒に楽しくサッカーをして、『プロ選手になれよ』くらいしか言えない。難しかったな」(内田)

内田さんの話に共感する宮里さんも「子どもたちには純粋にスポーツを楽しんでもらいたい。私も引退後に、ジュニアの選手と携わることが増えて、『うまくなりたい』や『どうしたらプロになれますか?』と質問を受けると、『そんなに好きなんだ!』とうれしく思う。その気持ちを持ったまま成長してもらいたい」と話した。

宮城・東北高校出身の宮里さんは、震災後に高校を訪問したという。

「どんな言葉を掛けていいのか直前まで迷いました。ただ、実際にみんなすごく元気で、すごく頑張っていて、私が声を掛けるまででもなかった。ゴルフ部の子たちは練習環境がままならないということもあり、アドバイスをしましたが、自分が被災地に行って学びました」(宮里)

内田さんも「僕も僕が行って元気になる、そんな感じでした。行って大丈夫かな?と思っていたんですけど、みんな力強くて、行ってよかったし、こういうことを続けていくことが大事だな」と感じたという。

「憧れ」の存在

三浦知良選手(現在、横浜FC)に憧れてサッカーを始めたという内田さんは、「三浦さんが震災の復興試合でゴールを決めるんですけど、それを見たときに、人や日本が苦しいときに心動かせるような、一アスリートになりたいと、僕の中で追いかけてきた存在なので、三浦さんみたいになりたいし、子どもたちにもそういった姿を見せたい」と語った。

コロナ禍で感じること

新型コロナウイルスの感染拡大の影響により、昨年は苦しい状況に置かれたアスリートたち。

宮里さんは「昨年は試合がない。練習もできない状況でしたが、試合がないことで自分の“存在意義”を考える瞬間もあったと思います」と明かした。

2020年8月に現役を引退した内田さんは、コロナ禍での引退に寂しさを感じながらも、一方でサポーターの存在の大きさに気づかされることがあったと振り返った。

「スタジアムでの試合もお客さんが少なく、言葉も発せない。最後はすごく静かな試合で終わって、すごく寂しい気もしましたけど、しっかりと(サポーター)を見ることができるし、声も届く。僕自身もこの中でやめたくないなと思ったんですけど、難しい判断でした。
ただ、僕がプレーをし始めたときから応援してくれているファンもいて、選手としての最後を見てくださったので、無理してでも貫いてよかったと個人的には思います。

声援とかあってスタジアムの雰囲気が成り立って、全部ひっくるめてサッカーだなと思いました、こういう状況になって改めて。今までお客さんが入ってくれて、サッカーをやって、キラキラと輝いているサッカー選手が当たり前だと思っていましたが、お客さんの声援などがあってありがたいなと。
僕はキラキラしたところを見て、サッカー選手になりたいと思ったので、そういう場を作って子どもたちに提供して、未来につなげていきたい」(内田)

今後やっていきたいことは?

内田さんは「苦しいときに応援してもらったり、支えてもらったり、背中を押してもらったりしたので、これからは頑張っている人や日本の素晴らしいところを広げて、伝えていきたい。今までしてもらったことを、これからはする側かな。
スポーツを通じてスポーツの良さやスポーツの力を伝えていきたい」と語った。

宮里さんは「引退して今年で4年目になりますが、ジュニア大会などに取り組んできたので、ゴルフで培った経験や応援してもらうことが幸せなことなどを伝えていきたい。今まで応援される側で、応援する側に回ると視点が違って、もっと視野が広くいろいろなことを伝えられる立場でもあるので、ゴルフを通じて社会に恩返しする活動をしたい。
私はゴルフしかできないので、ジュニアの選手の育成だったり、自分ができることを一つずつやっていきたい」と明かした。

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