東日本大震災が発生した2011年、バレーボール女子日本代表だった新鍋理沙さん(当時21歳)は、宮城県石巻市を訪れていた。

震災の爪痕を目の当たりにし、すべてを奪い去られた光景に、言葉が出なかった。

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あれから10年が経ち、新鍋さんは再び同じ場所を訪れていた。

「被災した方の悲しみは何年たっても消えないと思うから、改めてここに来ると色々考えさせられる」

新鍋さんが出会った1人の少女を通して、“スポーツがつなぐ未来”に迫った。

日本代表選手としてロンドン五輪に出場

新鍋理沙さんは2011年、東日本大震災が起きた年に、初めて日本代表に選ばれた。

日の丸の重みを強く感じながらプレーしたのを覚えていると語る。

2012年にはロンドンオリンピックに出場し、銅メダル獲得の大きな原動力に。

「たくさんの人の支えがあったから取れた銅メダルだった」と振り返る新鍋さん。

2020年、新鍋選手は東京五輪の延期もあり、現役引退を決めた。

震災から10年経った今、スポーツに何ができたのか?

そう考える時間ができたのだ。

震災から10年、あるバレー部マネージャーとの出会い

新鍋さんが被災地で出会ったのは仙台市立仙台商業高校・男子バレーボール部のマネージャー、萩原彩葉(はぎわら・さわは)さんだ。

それまでバレーボールの経験がなかった彩葉さんだが、宮城県の強豪でもある仙台商業でマネージャーを3年間務めたという。

彩葉さんの第一印象は、かわいらしい笑顔だったと新鍋さんは言う。

しかし大きな悲しみを経験した人だ。

新鍋さんが「3月11日は、彩葉ちゃんにとってどういう日ですか」と尋ねると、萩原さんは「父が亡くなった日でもありますし、私の新しい人生の始まりの日でもあったので…」と答える。

震災当日、津波の被害が大きかった名取市閖上(ゆりあげ)で仕事をしていた萩原さんの父・英明さん。

津波に巻き込まれ、遺体が発見されたのは、1週間後だった。

「父は私たちの家族の中の太陽みたいな人で、父がいるから家族も毎日楽しくて、そういう人がいなくなって、みんなこれからどう生きたらいいんだろうみたいな感じでした」

大切な人を亡くして空いた心の穴。

笑顔のない毎日が続いたという。

家族に再び笑顔をもたらしたバレーボール

つらい日々を、もう一度光の中に戻してくれたのが、萩原さんの3つ上の兄・颯太(そうた)さんが入部した仙台商業高校バレーボール部だった。

母・美香さんは、バレー部のおかげで家族が再び明るさを取り戻したと話す。

「パパがいなくなった寂しさもあって、笑顔を見せないっていう生活になったのに、本当にいきいきとなっていったので、部活でつらいのに帰ってきてもにこにこしゃべっている姿を見て、それが家の話題になったりとかで」

萩原さんも笑顔を取り戻していった、バレー部のマネージャーになるため、仙台商業高校への進学を決めた。

笑うことを忘れた毎日から救われた自分が、誰かを支えたい。

そんな気持ちだった。

「生きててよかった。みんなに感謝」

部活動の厳しさを知る新鍋さんが、「休みほしいなとか、ちょっと休みたいなとか思わなかったですか」と聞くと、萩原さんは「みんなが『休みたい』って言ってるとき、私は心の中で『オフ潰れろ、オフ潰れろ』と」笑う。

いつしか萩原さん自身が、バレーボールに夢中になっていった。

萩原さんの所属する仙台商業は、今年1月に行われた春の高校バレーに宮城県代表として出場。

結果は、最高成績に並ぶ全国ベスト8だったが、選手たちが感じたのは負けた悔しさだ。

萩原さんは笑顔で、そんな選手たちを包み込んだ。

「こんなに青春っていうのが素敵なものなんだって思ってなかったので、自分一人だけじゃなくてみんなで積み上げて作る青春がこんなに素敵なんだっていうのを教えてもらいました」

そう話す萩原さんに新鍋さんが「バレーボールが救ってくれたことって何かありますか」と聞いた。

「私の存在意義というのを、ずっと感じたくてそれでマネージャーにもなったので、名前を呼んでもらうだけで、ああ、やってよかったなとか、生きててよかったなって思えたので、みんなには感謝してます」

新鍋さんはその答えを聞き、「悲しいことって消えないけど、こうやって笑顔で話してて、なんか強いなってすごい思いました」と涙を流した。

人を笑顔にするスポーツの力

「スポーツは、直接復興に関わることはできない。でも毎日を明るく彩り、人を笑顔にする力があると思う」

新鍋さんは、続ける。

「私もちっちゃい時は、テレビで見ていた選手に憧れて、こういうふうになりたいって思ったこともあったし、誰かに色んなことを思ってもらえるというのがスポーツのいいところだと思うから、そういうのがつながっていけばいいと思います」

萩原さんと出会って感じたスポーツがつなぐ未来とは、人々を「笑顔にする力」だった。

震災から10年目の3月11日、萩原さんは父が亡くなった被災地を訪れていた。

「素敵な人達と一緒に部活できたよって報告をしました。父ちゃんのことなんでよくやったって言ってくれてると思います」

萩原さんは3月に高校を卒業し、青春をくれたバレー部を巣立ち、新たな人生をスタートさせる。彼女の未来はこれからも続いていく。