残された子どもの10年

東日本大震災では多くの命が失われた。家庭を持ち、いわゆる「働き盛り」と言われる年代も多く亡くなった。残された子どもは、この10年をどのように歩んできたのか。
当時中学2年生だった福島・相馬市の男性は前を向いて歩みを進めていた。

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熊倉智大さん:
右から末治が私のお爺ちゃんで、かよ子が私の母親で、横が乃紘で私の兄で、その横が私の弟・裕幸

10年前の津波で、家族4人を亡くした福島・相馬市の熊倉智大さん。

熊倉智大さん:
私にとってはこの10年は、あっという間だったなという気がしますね。精一杯生きていたら、いつの間にか10年経ったというのが一番大きいですかね

2011年3月11日。福島・相馬市には高さ9メートルを超える津波が押し寄せ、458人が命を落とした。このうち半数以上の251人が犠牲になったのが、熊倉さんが家族と暮らしていた沿岸部の磯部地区だった。

熊倉智大さん:
一瞬でしたね。全部巻き込んでいったので。黒っぽくて、勢いも凄かったので、結構「ゴーー」という感じで飲み込んでいっていましたね。とても現実とは思えなかったですね

当時・中学2年生だった熊倉さんは、学校近くの高台から自宅付近に迫る津波を目撃していた。

熊倉智大さん:
どこかに避難しているだろうとは思っていたんですけど。生きていると思っていたので、まさか巻き込まれていると思わなかったので

母親のかよ子さん・兄の及紘さん・弟の裕幸さんの3人は、地震の後、避難所に一度避難していた。
しかし…

熊倉智大さん:
じいちゃん(末治さん)が家にいたから車で戻ったとは聞いたんですけど。この家と一緒にいるみたいな感じで、たぶん避難しなかったんじゃないですかね。いくら憎んでも自然災害なので、しょうがない部分もあるのかなってどこかにはありますね

東日本大震災から10年。宮城・仙台市の専門学校を卒業した熊倉さんは、介護士としての道を歩んでいる。

熊倉智大さん:
被災して「助けたい」という思いが出てきて、人助けの職業に就きたいと思って介護士を選びました

愛称は「くまちゃん」。介護福祉士の国家資格を活かし、利用者の食事補助や健康体操など質の高いサービス提供を目指している。

熊倉智大さん:
まだまだ力が足らない所もあるので、もっと努力とか精進して自分の力を磨いて、ちょっとでも多くの人を助けられるように頑張っていきたいです。社会人になって、少しは前を向いて歩けているんじゃないかと思います。どっかで(家族が)見てくれているから、私もやれているという所はあります

10年が経っても、色褪せず変わることがない家族への思い。
熊倉さんは命日などには欠かさず墓参りを続け、語りかけている。

熊倉智大さん:
近くで見守って欲しいから、墓参りとかした時に報告しには来ています。いつ周りの身近な人を失うか分からないので、だからこそ優しく接するのが大事なんじゃないかと、なおさら感じましたね

大切な家族を奪った海。ただ家族との忘れられない思い出が詰まった場所でもあり、憎むことはできない。

熊倉智大さん:
家族で海とか行って、遊んでいたのがやっぱり一番印象に残っていますかね。こんな風に普段は穏やかなんですけど、いつ我々に牙をむくか分からないので、常に準備とか逃げる手段とかを確保しておかなければいけないと思いましたね

(福島テレビ)

福島テレビ
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