夏休みに入って、海のレジャーも盛んだが、昭和の時代、福岡の海は、どんな姿を見せていたのだろうか?『昭和の海』の記憶を振り返る。

激混み海水浴場 一転コレラ騒ぎで…

車の大行列の先にあるのは、海水浴場。昭和54年(1979年)の福岡市内の海水浴場は、見渡す限りの大混雑。海水浴は、夏のレジャーの大定番だった。

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しかし、海水浴場が閑散としてしまう出来事もあった。

昭和37年(1962年)7月、当時の門司市(現・北九州市門司区)に入港した貨物船の船員が、集団でコレラに感染していたことが判明。

市中での流行を防ぐため、町中で消毒が行われた。市民が殺到したのは、ワクチン接種。

このコレラ騒動は、夏のレジャーにも影響した。海水を使った市民プールは閉鎖され、子どもたちは呆然。

この年ばかりは海水浴場も人っ子1人いない状態に陥ったのだった。

意外な方法で水着PR クジラの大群も

海で遊ぶときに欠かせないものといえば、水着。昭和の時代、意外なかたちで新作水着のPRが行われていた。

昭和41年(1966年)、営業中のデパート。エスカレーターに乗って水着を着たモデルたちがPRしたり、更にはショーウィンドウでも新作水着ショーが行われたり、道行く人たちの多くが、足を止めて見入っていた。

昭和36年(1961年)、博多湾の浜辺に集まったたくさんの人。なんと、クジラの大群が浅瀬に迷い込んでしまったのだ。

突如、現れた“海の恵み”に漁師と見られる人たちが、大急ぎで船を出す。

クジラの尾にロープをくくりつけて引きあげ、船に満載していく様子が記録されていた。

戦争の記憶 3000万枚の硬貨引きあげ

昭和63年(1988年)には、海底から、お宝が引きあげられた。当時、取材した記者のリポートが残されている。

「私の足元にあります、この硬貨の山。これが実は潜水作業船『HIRYU』が、対馬沖で沈没した船から見つけたという硬貨なんです」

海底から引き揚げられたのは、清や中華民国時代の硬貨。その数、なんと約3000万枚。

引きあげた船会社の社員は「足元を見たら、足の下がみんな銭だと。ダイバー自身がですね、今まで長いことサルベージやってるけども、お金の山に潜ったのは初めてだ」と話している。

しかし、その後の調査で、沈没船は第二次世界大戦中の日本軍の徴用船の『三星丸』だったことが判明する。

駆け付けた『三星丸』の元乗組員だった男性は「魚雷でやられて、貨物船やから穴が開いたら一発でしょ。すぐに退艦命令と同時に飛び込んで」と当時を振り返る。

『三星丸』は、上海から門司へ向かう途中、アメリカ軍による魚雷攻撃で沈没。船内からは遺骨や銃弾も見つかった。

大量の硬貨は、兵器などをつくる材料として日本へ運ばれていたとみられている。

引き揚げた舟会社の社員は「亡くなられた方というのは、この荷物を日本に運ぶのが任務で亡くなられたわけですけど、44年後に我々がそれを引き継いで、どうにか無事に国内に持ち込むことができたってことは、一応、これで44年間の航海が終止符を打てたっていうことじゃないですかね」と静かに語っている。

海底から見つかった3000万枚の硬貨。その発見は、戦争によって船が沈められたという事実を44年の時を経て甦らせた出来事でもあった。

公害測定車で調べられる魚介

昭和40年代(1960年代初頭~70年代前半頃まで)の大牟田市。垂れ流される工場排水などの影響で有明海の汚染が深刻化。

河口付近では、魚が大量死しているのも発見された。

大牟田市には『公害測定車』なる車両が出動。主婦たちが買った魚介類を持ち込んで、有害なものが含まれていないか、検査してもらう事態にまで発展した。

海に大勢の人が集まり意外な出来事も起こる一方で、戦争の記憶が蘇り、海洋汚染の問題も表面化。昭和の海の記録は、激動の記録だった。

(テレビ西日本)

テレビ西日本
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