目が見えず、音も届かない。そんな「盲ろう」の孤独の中で、自ら命を絶とうとした女性がいた。しかし今、彼女は海外旅行という大きな夢を抱いている。その変化を支えてきたのは、宮崎県で19年にわたり盲ろう者の「目」となり「耳」となってきた通訳・介助員、國料(こくりょう)明子さんの存在だ。決して一人にさせない「一人も取り残さない」という信念で、暗闇に光を灯し続ける歩みと、その先にある未来を見つめた。
盲ろう者の目となり耳となる「通訳・介助員」
「宮崎県盲ろう者友の会」の通訳・介助員として、19年間活動している國料明子さん。

この日、國料さんは、人工内耳でわずかに音が聞こえる竹次ミサヲさんをサポートして美容室に同行した。
養護盲老人ホームへ迎えに行き、施設のスタッフからバトンタッチ。竹次さんとしっかり手を繋ぎ、段差を伝えながら、美容室へ向かう。

竹次さんは、人工内耳を外すと音が全く聞こえない。
「耳キャップをしますか?」「前髪はどのくらい切りますか?」
美容師の言葉を國料さんが手のひら書きで竹次さんへ伝える。

カットが終わり、「涼しくなりました」と嬉しそうに話す竹次さん。
國料さんは自身の役割を「当事者の目であり、耳であり、口でもある」と話す。
「通訳・介助員」になったきっかけ
國料さんの自宅に伺うと、家族で食卓を囲んで楽しそうに手話をしていた。娘の忍さんは、耳が聞こえない。

忍さんの誕生後、初めて手話に触れた國料さん。
その後、あるきっかけから通訳・介助員になることを決意したという。

國料明子さん:
何回か関わりのあった盲ろう者の方が、自ら命を絶たれたというのを聞いて、ものすごくショックで。それからですね。
2007年、國料さんは宮崎県で初めての通訳・介助員として活動を始めた。

國料明子さん:
自分たちがいることによって、盲ろうの人たちが、ちょっとでも社会に一歩踏み出せたらいいなと思う。明るい希望を与えられれば最高ですよね。私のテーマは「一人も取り残さない」。
絶望を乗り越え 海外旅行の夢を抱く
えびの市に住む遠目塚秀子さんは、兄と母と3人で暮らしている。秀子さんは幼い頃から音のない世界を生きるろう者だったが、小学6年生の時に目の難病「網膜色素変性症」を発症。37歳の時に全く見えない、聞こえない「全盲ろう」となった。

遠目塚秀子さん(手話):
料理も作れない、仕事もできない、本も読めない、お母さんとも話せない、ずっと苦しかった。台所から包丁をとって、腕を切った。お母さんは驚いていた。

秀子さんの母・ツルミさんは「すぐに病院に連れて行って助かった。両方切って、血が流れてもう…。苦しかったんでしょうね」と当時を振り返る。
現在、國料さんは月に一度、秀子さん宅へ訪問している。

秀子さんは、國料さんの手話を手で触って読み取る「触手話」や、「点字」で会話する。
今回の國料さんの仕事は、買い物への同行だ。
國料さんは「健常者であったらできること、それが制限されているので、そういう制限を、私たちがいることによって解放したい」と話す。

スーパーでは、國料さんが触手話で秀子さんへ情報を伝えて、食材を選んでいく。
「人参は1本入りと3本入りがあります。3本入りは149円です。いいですか」
「細切れ肉です。415円です。これで作ると美味しい?そうなんだ」

買い物から帰宅した秀子さんと國料さんは、手話で会話する。
秀子さん(手話):
カレーの匂いがする。カレー大好き。お兄さんが作ってるところをカメラマンは撮影してる?
撮影を気にする秀子さんと笑いあう國料さん。
國料さん(手話):
盲ろうになったとき、命を絶ちたいって思っていたでしょ。でもそれを乗り越えて生きたいって思った理由は何?

秀子さん(手話):
美味しいものを食べるため。

秀子さんに今の夢を教えてもらった。
秀子さん(筆記):
見えない、聞こえない生活。私の夢、遠目塚秀子。これから海外旅行でイギリス、フランス、ドイツ、オランダ、スイス、イタリア、スペイン、インド、ニュージーランド、アメリカ、ハワイに行きたい。海外の盲ろう者と交流をしたい。
國料さん:
行きましょう!体力がもつうちは。

盲ろう者は日本に1万人いるとされている。盲ろうは、元々は見える、もしくは聞こえる状態からなる場合も少なくない。
宮崎県に約150人いるとされる盲ろう者のうち「宮崎県盲ろう者友の会」とつながっている人はわずか12人しかいない。支援がしたくても、本人に情報が届かないという現状がある。
國料さんは「周囲に支援を必要としている方がいたら、ぜひ友の会を頼ってほしい」と呼びかける。誰一人として取り残さない社会の実現へ。私たち一人ひとりが、まずは現状を知ること、そして温かな支援の輪を広げることが、その第一歩となる。
(テレビ宮崎)
