こうした環境に長くいると、人は、「自分がどう働きたいか」よりも、「今日を乗りきれるか」「怒られないようにやる」を基準に行動するようになります。
その結果、気がつけば仕事が自分から選んだものではなく、「仕方なくやらされるもの」に変わっていきます。「やらされ仕事」はどんなに楽に見えても、苦役です。
また、社会に出て日々の仕事に追われていると、
「こうすれば評価される」
「こうすれば叱られない」
「こうすれば嫌われない」
こんな身の振り方が、無意識のうちに定着していきます。
処世術としては有効な一方で、問題があります。常に評価するのは「自分以外の他者」であることです。つまり、頑張り方や働き方の主導権をいつまでたっても自分が持てないため、「ここまでで十分」という区切りを自分で決めることができません。
こうして、終わりのない「もっと」がスライド式のように出続けて、頑張りすぎる状態が「ふつう」になっていきます。
「頑張りすぎないで」と言われても…
だから、急に「頑張りすぎないでね」と言われても、戸惑ってしまうのです。
「頑張りすぎないでね」が本心からの気づかいの言葉でも、内心では「本当は、もっと成果を求めているのでは」と感じてしまう。
その違和感が言葉にされないまま残ることで、疲れはさらに溜まっていきます。
もちろん、会社が悪いと言いたいわけではありません。
会社が目標達成を求めるのは自然なことです。
ただ、気をつけたいのは、頑張ることの「強さ」と「長さ」です。
人は短い期間であれば無理もでき、評価されればもう一段踏ん張ることもできます。けれど、その状態が強く、長く続くと、心には少しずつ負担が溜まっていきます。
本来なら100%で十分なはずなのに、意識しないまま、120%、時には200%まで力を出してしまう。すると、ある日突然、動けなくなることもあります。
それが、「会社で働く」怖さです。頑張らされているのか、頑張っているのか。働かされているのか、働いているのか。境目が曖昧な働き方が普通になってしまっています。

